飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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「ゆゆしい音色」③:指 【同人小説】

6月10日。

 1週間前の梅雨入り宣言。その割にはまだ今年の雨の日は少ないけれど、たしか今日の太陽が隠れたのは正午を回ったあたり。空はみるみる曇りはじめ今は泣くのを必死に堪えたしかめっ面でこっちを睨んでいる。濃子の車に戻ったところで意識がふっと薄れる。目眩。豆電球一個分くらい視界が暗くなる。忘れてたけど昨日は一晩中作業。今日の太陽のことなら昇ったときから知っている。彼女が再び豚まみれのハイエースにエンジンをかけると、カーステレオがブツッと言ってOne Directionが歌い出す。さっきこんな曲かかってたっけ?

 

 

One way or another I`m gonna find ya

 I`m gonna getcha getcha getcha getcha

(どんな手を使ってでも、君を!君を!君を!君を!

 僕はつかまえてやるんだ!)

 

 濃子がクーラーのつまみを回しながら「今日、うちくる?」と訊いてくる。ほとんど反射的に返答が漏れる。でも「嫌」と「yeah?」の中間みたいな「イヤァ…」はか細すぎて、ちょうど顔面にぶっとふきつけたクーラーの冷風にかき消される。人工風に混じったインクのような臭いにまたくらくら。香りの正体はこの溝の奥に溜まったカビの胞子。3の倍数月の10日毎にうちのかみさんがね、リサイタルを開いていると濃子は嗅ぎつけて1回、会場まで観客として来たことがある。彼女の鼻が、なにかしら僕が養豚場に通う周期と妻のリサイタル開催の周期に関連性を嗅ぎつける。いつもならリサイタルのある日は17時までいちゃいちゃしていられるけど、今日は15時半には彼女の車から降りないといけない。そのことも相まって、やはり正午を回ったあたりから突然機嫌が悪くなり小さな声でぶつぶつぶつぶつ喋りながらハンドルを回す。今にも雨が降りそうだ。

 

And if the nights are all out

  I`ll follow your bus downtown

  See who`s hanging out

 (もしも部屋に灯りがなければ

  君の乗ったバスのあとをつけ

  誰といるのか探して回るよ)

 

 目眩に偏頭痛が合流。そのせいで彼女が最後にもう一度尋ねた「それで、うちこれるの?」を聞き逃す。「今なんて言ったの?」なんて聞き返すともっと怒られそうなので、麻痺したみたいにアシンメトリーな鈍い表情で暗そうに笑う。

「へへへ」

 急ブレーキ。僕を車から追い出す。

「けち!」

 そう言い残して去っていく。今日はいつもの大学の正門じゃなくてJRの駅のロータリー。湿気の残った生ぬるい風に吹かれて徐々に正気を取り戻す。よしよし右手の指が5本、左手も5本、1たす1は2、2たす2は4、4たす4は……。ロータリーでバスを探す。「北部車庫行き 西廻り」と額に書かれたバスがバス停の前でゆっくりと停車するのを見つける。ここで昨晩、妻の話していたことをリフレイン。

「夕方の退勤ラッシュ前でがらがらだった。17時ちょっと前くらい。私が乗ったときには同じ車両に小さい男の子、自分で歩いてたから4歳くらいのと、あとたぶん女の子の赤ちゃんをだっこした若いお母さんがいたんだけど、次の駅でまた別の男が一人乗り込んできた。ロゴがちらっと目につく。アルマーニらしいけどサイズも仕立てもあまり似合ってない不恰好なスーツの男。顔が細長くてネズミみたい。頭は禿げてて40歳くらい。汗かあぶらで湿った髪の毛にくせがついて額に張りついて蒔絵の模様みたいになってる。その人がさっきのお母さんのほうを向いて『ああ、こんにちは。こんなところで』って知り合いみたいな感じで言うんだけどお母さんがすごく困った顔をして、なにも言わない。まるで男のほうは相手が誰か知ってるけどお母さんのほうは誰だかわからないみたいな感じ。そいつは男の子のほうにも『こんにちは』って言うんだけど。男の子のほうはおしっこちびりそうなくらい顔を歪ませて一歩下がってお母さんの袖を引く。腕の中の女の子は泣き出す。だから私、アイツらだって確信したの」

 彼女は彼女にとってその特定の人のことを「アイツら」と呼ぶ。妻はそれを見るとどうしても我慢できなくなるらしい。

 その男はこのJRの駅で降りた。妻も彼を追いかけて同じ駅で電車を降りる。改札を抜けてから構内を横切る高架通路を渡って南口へ。途中で私鉄の改札のそばを通るが、私鉄のホームから迷子のコウモリが飛んできて男の正面に向かって突っ込んでくるのでぶつかりそうになる。男が避けると、妻は彼の背後でそのコウモリの頭部を潰さないようにキャッチ。立ち止まる。男を含め周囲だいたい半径3メートル以内にいた人はみんな振り返って彼女に注目する。彼女はこちらを振り返った男の顔をしっかりと睨みながらコウモリの頭を解放する。周囲の視線は彼女から私鉄のホームに飛び去るコウモリに移る。男だけは妻のことをじっと見つめたまま怯えている。彼はそこで、この女が電車を降りたところからずっと自分をつけてきていることに気づく。南口のロータリー、バスターミナルへ。コウモリが飛ぶくらいの時間帯、きっともう日が暮れかけていた。

「そのあと、市バスに乗ったの。西回りで北部の車庫に終点で到着するバス」

 妻は男のあとをつけて同じバスに乗りこむ。市バスに同乗していたのはバックパックの中国人観光客のカップル、老人が3人、学校帰りの男子高校生が2人。男は自分のあとをつけているのはなにか得体のしれないものだと疑い始める。乱暴な運転でバスが交差点を右折もしくは左折する。そのたびに車体が軋んで立てる音もだんだん大きくなる、ような気がする。そのうち自分の頭も破裂するんじゃないか。どんどんいらいらしてくる。男は女の顔を見る。ちらっ。紺色のタートルネック、細かい刺繍の入った黒いスカート、タイツ、暗い赤茶色のミュール、切り揃えられた前髪。ちょっと厚着じゃないか。でも決して遠くから見て目立つ恰好ではない。不潔にくすんだ市バスの窓ガラスを通り抜けて侵入する沈みかけた太陽の不安定な光はその角度が変わるたびに彼女の姿を現しては消したりする。

 男は市立美術館前で下りる。美術館は地下3階、地上3階建て。フランス・ルネサンス風の名建築。地元では名所で通っている。バス停から美術館のある側に行くには、横断歩道で道路を渡らないといけない。男が走って渡る。妻もバスを降りて渡ろうとするが、すぐに信号機が赤になる。走って追いかけようにも片側2車線の広い道路。近くには他の横断歩道や歩道橋は見当たらない。

「それで一回、見失ったの」

 信号が再び変わると正面の庭園を抜け、駐輪場の間を通って美術館の建物に向かう。透明なガラス扉を抜けて中へ。右手に売店。正面に待ち合い用のロビー。背もたれのないソファが真ん中に並んだラウンジ。奧に階段、ガラスのしきりがついた中2階のところにもぎりがいる。企画展「ドイツ表現主義とその周辺」が開催中。男がチケットを持ってもぎりの前を通る。

「見つけた。そう思ったら、その一瞬、目が合った」

 再び外に出てカウンターでチケットを購入。さっき男がいたもぎりの前を通って展覧会場に入って行く。入り口にはこの美術館の所蔵品なのかエミール・ノルデ風に刷られた「我が子を食らう森村泰昌」の版画。イントロダクションの横、申し訳程度にクリムト、エゴン・シーレとカンディンスキー。ベン・シャーンは関係ないだろ? 明るい色彩の裏に邪な下心を隠したようなノルデの油絵。オットー・ディクスが描いた戦争と役人。不健康なまでに明るいキルヒナー。熱にうなされた子どもの悪夢みたいなジョージ・グロス。目玉はココーシュカの『プットーとウサギのいる静物画』。客が群がるこの絵の隅、描かれた赤ん坊の背側にあった壁の横に「展示会場準備中」と書かれた看板のかかった鎖で塞がれた細い通路。隣に椅子が置いてあるのに、学芸員は座っていない。鎖を跨いで男が通路の先に消えていくのを目撃する。妻もまた周囲の客と従業員の目を盗んで男と同じように通路に入る。使われていない部屋、真っ暗なブラックボックス、部屋の隅に備えつけられているらしい加湿器の音だけが聞こえる。三たび男の居場所を見失う。男はさらにその奧にある、建物の外に備えられた非常階段に続く扉を開けて降りていこうとしていた。男が扉を開ける。真っ暗な空の展示室に外の光が差し込み、空気の漏れる音がする。真っ赤な夕日。

「一目散に走ったの。だってこれ以上の場所はないでしょ」

 音を立てないようにさっと飛んで男のすぐ背後に回り抱きかかえるように優しく首に手を回す。男が呻くよりも速く、鎖骨の間に親指を這わせて喉元を押さえ込み相手が声を出せないようにする。それから自分に近い方の相手の肩を脱臼させて抵抗する力を奪う。そして彼のもう半身が脱出しようと片手をかけていた非常口の扉を閉める。厚さ5センチの金属の扉が閉まるときに男の左手、親指をのぞいた4本の指が切断される。そのときに一度だけばたんと大きな音がする。同時に男の首の骨が1本折れて窒息。彼女は最低限の力で人を殺し運び出す方法を熟知している。わずかな物音を聞きつけたのか、ただの巡回か、警備員が懐中電灯を持ってまわってきて展示室の中を一通り大雑把に照らす。死体を抱えたまま展示室の壁でできた影に隠れた妻のことを見落としてくれる。妻は男を抱えて非常階段を降りていく。

「だから明日、指、探してきてくれない?」

 6月10日。僕はチケットを買って「ドイツ表現主義とその周辺」企画展に入場。ココーシュカの不気味な絵の横、奥の展示室に向かう。彼女が真っ暗だったと言っていたはずの部屋が明るい。「注意 caution」の黄色いテープ。え? 中に入れないだって? 警察が到着していて現場検証を行っている。美術館の場内アナウンス。展示会自体が明日から一度中断されるらしい。しまった。黄色いテープの中を覗く僕のところにパンツ・スーツを着た若い女の警官が向かってくる。

「どうかなさいました?」

 という話を、リサイタルを終えたあとの妻に話したら、

「ダメじゃん」

「リストのカンパネラって感動するね。同じモチーフが重層して繰り返すたびに感情が高まっていって……」

「なにはぐらかしてんの。やばいじゃん」

「大丈夫。まだ殺人事件って決まったわけじゃないから」

 テレビを点けると「美術館で殺人事件か?」と、ニュース速報。

「これ、どうすんの?」

「……まだ『殺人事件か?』だから。『交際か?』とか『整形か?』と一緒だから」

「芸能ニュースじゃないんだけど」

「大丈夫だって、ほら。担当刑事の電話番号ゲットしました」

 画面に「奏江刑事」と名前が表示される。

 

 つづく

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