飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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「ゆゆしい音色」5−2:才能 【同人小説】

 藤本に教えられた住所は繁華街の東西に走る車道から一本路地裏に入り口のある貸しビルの地下二階。劇場のボックス席のような入り口。夏だというのに目深にニット帽をかぶった男がもぎりをやっている。一人しか通れないくらいの狭い入り口通路を抜けて中入るとそのまま奥へ奥へと縦長に続くダイニング、ベンチ、テーブル、右手にカウンター。天井には埃をかぶった装飾用のシャンデリア。はみ出したダクトと場違いな現代的空調機器。小さなステージらしきものがあり両脇にスピーカー、ドラムセット、向かって左隅にカワイのアップライトピアノ。客席は各々アルコールを手にした20人前後の客で賑わっており、年齢層は40代前後とやや高め。互いに見知った人が多いのだろう。「久しぶり」とか「元気?」とかいう声が飛び交う。談笑の向こうから、シュトラウスの「愛して飲んで歌って」がBGMとして流れているのがかすかに聞こえる。

 

 羽生は西村マユを一度学内で見たことがあった。虚ろな目をした華奢な女だ。時間になると彼女がやってきてピアノのところに座る。腰回りにシャーリーのついた真っ黒なシフォン生地のドレス。照明が落ちてBGMが途切れるが、客席は談笑したまま。挨拶もなく突然彼女が弾き始めると客の声はフェードアウトして、みなぞろぞろと座り始める。スカルラッティからはじまってシューマンを3曲、ショパンのマズルカを演って最後にリストの『ラ・カンパネラ』の一番ポピュラーなバージョンを演った。

 

「どうだった?」

 西村マユはあまり興味なさそうに尋ねた。うな重を食べ終わった女は今にも今度はシャーベットが食べたいとでも言いだしそうにアヒルのように口をとがらせる。

「いや、リストのカンパネラって感動するね。同じモチーフが重層して繰り返すたびに感情が高まっていくっていうか……」

 そこまで言うと鋭い音で「チィッ」と舌打ちをする。なんか悪いこと言った? 聞かれたから答えただけなのに。それから猫みたいにミの音でファ〜とあくびをして思い出したように、

「別にいいんだけどね、あんなの知り合いしか来ないし。そもそもクラシックじゃなくてもいいの。やれって言われたら映画音楽とかアニソンだってやるし。久石譲とか。最近の小学生ってピアノ習うとゲームとかアニメのサントラとかからはじめるんだって」

 彼女がピアノを弾くときに出す音は――リストのときひときわ――パチンコ玉みたいだった。パチンコ玉の跳ねる音ではない。パチンコ玉みたいに固くて丸くてくっきりとした音を出す。彼女が叩く1音1音は輪郭のくっきりとした鋭くてムラのない丸い音だった。強くて柔らかい音。モチーフを繰り返すたびに微妙に変わる装飾音。ひとつひとつの音がかすれることなくはっきりくっきりと結構な速度を維持したまま繰り出される。

 西村マユは自分の師匠の話を少しだけした。師匠の名前を直接口にすることは夫との取り決めで避けることになっているらしい。彼女の師匠は彼女の最初の旦那だった。そのプロピアニストの名前を以前、リサイタルをふらっと聞きに来たモーツァルト・マニアの前で口にしたところちょっと不穏な空気になった。このプロピアニストの男は演奏技術だけでなく理論や美学知識にも精通したところがあった。

「私の習った人がね、音楽にはそもそも感情っていうものはないっていうの。感情っていうのは人間がやりとりするものだって。西洋の音楽ってもともとは賛美歌だったんでしょ。だから、感情を持っているのは声と表情だけなんだって。音楽に感情があるように見えるのはそれが声みたいに聞こえるからであって、感情っていうのは音楽に固有の核の部分じゃないっていうの」

 彼女のつくる音色の丸みというのは、女性的な丸みを連想させる部分もあって少し理屈で割り切れない生々しさがあった。しかし同時にドライでもあった。その演奏はどこか動物的で無慈悲だった。機械的ではない冷たさがあった。凶暴で獰猛な冷たさだ。低音部ではピアノが壊れるくらい鋭い打ち込みが続いて何音かはしっかり響いていなかった。なんでこんなピアノを使っているんだろうと思った。

 

 リサイタルのあと、羽生が再び藤本の家を訪れる。家の奥にはなにもなかった。リビングもダイニングも寝室も空っぽ。まるで引っ越しの業者が家具を引き取った後みたいに電球や蛍光灯さえついていない。夜になると暗くなるに任せるだけ。リビングにピアノが一台置いてあるだけだった。藤本がマユの話をはじめる。

「最初に演奏を聴いたとき、とても才能のある子だと思った。最初はその程度だったんだ。大学にあるピアノを使ったんだが、そのときもう少しダイナミックな楽器を使ったほうがいいと思った。彼女の演奏は繊細だけどとても力強かった。彼女の特技がもっと活かせる楽器がよいと思った。このベーゼンドルファーは私の私物なんだよ」

 今、それは彼の家にある唯一の家財だった。

 藤本はマユを自宅に呼び寄せ、妻と娘達の前で「ハンガリー狂詩曲第2番」の連弾をした。またリストだ。藤本は最初、彼女を上を弾かせたが弾き始めて1分くらいしたところでマユのほうから下がいいと言い始めた。弾き始める。彼女は相手にとって一番心地よいタイミングで、もしくは一番心地悪いタイミングで音を並べた。藤本だって教師として一線を退いたとはいえ、何年もプロとして活躍してきた一級のピアニストだった。それでもマユはその半歩先にいた。本当はもっとずっと彼女のほうが遠い場所にいたが、まるで蛇が生かさず殺さず獲物をいたぶるように藤本の演奏のほんの半歩だけ先回りしていた。藤本は、そのたびに自分の背中を触られているような奇妙な感じがした。自分の死角をいつもうろつかれている。女は暗闇から現れてはまた姿を消す。彼女が新しい鍵盤に指を落とすたびに、自分が無力な少年へと時を遡らされるような気分にもなった。それで彼は本気を出した。決してそれまで手を抜いていたわけではない。自分でも知らなかったような力が漲るのを感じた。マユに踊らされるように彼はその本気を絞り出された。そしてマユはさらにその半歩先にいた。彼は一瞬、マユの指を見た。その一瞬彼は自分の演奏をおろそかにした。そして、それが命取りとなった。彼はその後一度も鍵盤を触ることができなかった。手を下ろして深いため息をつくと、隣でマユが何事もなかったかのように弾き終えるのを見送った。その夜から文字通り食事が彼の喉を通らなくなった。拒食の症状は以来改善しない。彼は二度とピアノが弾けない体になった。

 外はもう暗くなっていた。住宅地の奥へと連なる道路の両脇を照らすオレンジ色の街灯の光る部分だけが遠くからは宙に浮いて見える。真っ暗な部屋の中で灯といえば外から差し込むその光だけ。ベーゼンドルファーの影から藤本がぬっと顔を出す。

「羽生くん。それでもやるなら、彼女を誘ったらいいよ。危険だがいい機会にはなる」

「考えてみます」

 

これまでの「ゆゆしい音色」