飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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「ゆゆしい音色」7:悪魔(後編) 【同人小説】

 数式によってこれから起こる未来を見通そうとする思考の歴史は古い。それは「決定論」と呼ばれ、一部の学者はそうした決定論を純粋に使いこなす知性を悪魔と呼んだ。フユヒコと有下の共著、二版目の『適正人口』はそれほど厳密な分析ではなかったはずなのに、幸か不幸かその予言は少しずつ的中した。

 学術論文だった『適正人口』のオリジナルは二版目の付録として一版目のおまけに成り下がり、メインディッシュはフユヒコの論文の悪趣味に戯画化した変奏曲に仕上がった。

  まず冒頭で約150年後のアメリカ合衆国滅亡が宣言される。残った国々はネグロもコーカソイドもモンゴロイドもオリエントに集って大都市バビロンを建設。新共同体は民主主義のうえでも経済のうえでも競争をやめ小規模均衡経済を構築しようとする。ここまで書いて二人は時代を遡り天変地異と世界戦争の百年史を描き始める。キリスト教とイスラム教が、ユダヤ人とアラブ人が、少数民族と多数派民族が、支配層と被支配層が歴史の修正をめぐって殺しあう。同時期に幾度もなく地球の表面を地震と津波、竜巻と山火事と干ばつが襲いかかり大規模なエネルギー装置を開発しようとする各国の試みはことごとく失敗し、その地に負の遺産だけを残す。そうしてヨブ記もびっくりの地獄めぐりの果てに人類は人口減少によって約束されたハッピーエンドを迎える。

 フユヒコの構想で、日本はアメリカの繁栄幻想にすがる右派とオリエントになびく左派にわかれ動揺の中で細々と弱体化し他のアジアやアフリカ、中南米の国々に出遅れながらも少しずつ中東への移住をはじめ、それでも尚未来の日本人の大半は200年後も300年後もこの島国に住み続けるというシナリオをたどることになっていた。しかし、有下は彼の案を「そんな本、誰が読むんだよ」と一蹴した。彼は、日本の役割をアメリカ衰退の中で中・米パワーゲームを仲介し、カリスマ的なリーダーシップでアジア諸国を率い最終的にはオリエントに匹敵する極東の有力国として国際社会に貢献し続ける、と書き換えてしまった。

 実際に、有下の目論見通りに本は売れた。

 週刊誌での人気芸人との対談連載をはじめとして雑誌連載を6本もレギュラーに持つ有下が『ダ・ヴィンチ』の年始特集「著名人、私の10冊」にフユヒコの『適正人口』オリジナルただ一冊を挙げた。1ヶ月後に『適正人口』の二版目が出版されると「なんだ、ステマだったのか」というネットの批判をはねのけ、最初の週で17万部、10日までに30万部売り上げる。芸能人である有下が出版したSF本ということで話題を集めたが、すぐに「これは学問か、文学か、それとも悪趣味な冗談か」と論争を呼び、ネットの掲示板には一部の熱烈な信者と、大量の炎上をもたらした。

 フユヒコのことを蒔岡以外の学会関係者は侮蔑をもって黙殺した。もうどこの大学も雇ってくれないだろう。有下は「学者なんてケチくさい。こっちの水がおいしいよ」と彼を慰め、お昼の情報番組に二人での出演を取り付けた。メディアは二人の快進撃を面白がって出版から2週間ほどのあいだほぼ毎日報道し、国外でもニューヨークタイムズと英国のガーディアン紙がそれぞれ「21世紀の悪魔の書」「不愉快な冗談」と書評を掲載した。出版社は100万部増刷のパーティーを催し、その帰りに有下はフユヒコをとある馴染みの店に連れ出した。

 

*** *** ***

 

 目の前で二十歳そこそこの女が豊かな陰毛をさらしながら股は内側に閉じて形のきれいな紡錘形の乳房をふたつ突き出し退屈そうに座っているのも20分も見ていれば見慣れてきて、服さえ着ていたら駅の改札を抜けた隣のホームの女子大生に見えなくもない。ここは混浴のサウナのようだ。プールのないプールサイドみたいに延々と続くタイルの床、リゾート地の公衆トイレみたいにどこかへ繋がるロッカールーム、シャワー室と化粧台、鏡、蛇口の前でおまるみたいなプラスチックのサイズの合わない低い椅子に座った中年男は足を大きく開いて隣を通った30代後半くらいの艶っぽいが、少し乳房の垂れた女の指先に自分の指をからませるが相手にしてもらえない。脂肪の溝にペニスが埋まりそうだからだろうか。僕をここに連れてきた有下はいつも彼が連れている一卵性の双子の女、ほとんど口を利かないマキとサキ、いつも乳首を隠している色違いのビキニのトップをはずしてしまうと見分けがつかない二人を連れてジャグジーに浸っている。そこにやってきた肩にサメの刺青がある坊主頭の若い男に「女が二人、足りないんだ」と持ちかけられるけれど、有下は不満そうに首を横に振りNOサイン。彼らの少し向こう、僕と同じようにこんなところに来るのが初めてらしい30代前半くらいのカップルが男は腰に女は胸にまだ大きなバスタオルを巻いて突っ立っている。裸の人間があつまるとその人間たちが普段食べているもの、特に調理に使われた脂の匂いが入り混じり便所や動物園にも似たひどい匂いを出すのでおそらくそれを隠すために人為的に檀香みたいな匂いがどこかから立ちのぼり水垢みたいなピンク色の靄が視界を遮り、奥のほうから強くて青い光、そして四方に広がる緑色のレーザービームが点滅する。光のほうからディスクジョッキーの声がする。たまにきらびやかなシンコペーションの混じるてろてろとメロウな四つ打ちに頭を揺らす裸族たち。とろんと眠気に見舞われたので、有下のもとに行って「ちょっと休んでもいいかな?」と聞くとつまらなそうな顔をして「先生、若いんだから遊ばないと」「眠いんだ」「まあ、好きにしたらいいけど」と言って「葛の葉」と書かれた部屋の鍵をもらう。

 「葛の葉」の内装はキッチンとダイニングのないアパートの一室みたいだった。シャワー室とトイレ、廊下を抜けて奥にそれだけで8畳くらいあるなにもないフローリングの床、隣に6畳ほどの和室。押し入れはないが二人用の布団が畳まれている。リビングにはビニール製のマットに裸の女がこちらに股を開いて眠っているのでぎょっとする。女がいるなんて聞いていなかった。これも有下の仕業なのか。「たちの悪いいたずらはなさらないでくださいませよ1」って? もう一度入ってきた方に向き直ると廊下を出てすぐのリビング入口に小さな冷蔵庫。キッチンがないのに冷蔵庫はあるのか。もう一度女のほうに向き直ると、瞬間移動したみたいに女の腕は僕の肩から首にまきついて親指が僕の喉仏の下あたりを押さえている。鼻がくっつきそうなくらい近くにそれがあるのでどんな顔をしているのかよく見えない。第一、音も立てずにこんな一瞬で人間は動けるものなのか。女の眼は暗かった。目の前に生身の人間がいるのに、なにも感じない。相手になにも期待しない寂しい色。底のない沼の色。彼女の目には殺風景のようなリラクゼーション効果があった。誰かといるという実感だけがあって、なんの責任も負わなくていいから。女がすっと顔をひいてやっとどんな顔をしているのか全体が結ばれようとする。でも僕は彼女がどんな顔をしているのか完全にわかる前に、きっと僕はこの女が好きだ、それで、好きになったらのめり込んでしまうから逃げられるうちに逃げたほうがいいと思いはじめていた。それでもさすがに彼女と結婚するとは思わなかった。

 女は僕の顔を見ると笑い出した。あとでわかったことだが、女は僕を殺そうとしていた。あんまり面が間抜けだったので拍子抜けしたらしい。三角形の小さな鼻、薄い唇は閉じると生意気そうに非対称に捩る。眉を隠すくらいの前髪、小さな顎、毛細血管が頰を染めるときに絶妙なバランスで彼女の少しだけ浅黒い肌が紅潮する。小さな乳房、浮き出た肋骨、尻からももにかけての曲線にやや歪みがあり立ち上がると子どもなのか大人なのかよくわからない。首すじをみると25は過ぎていると思えたが、14歳から40歳までどの年齢でも通りそうだ。

「君はその、プロの人なの?」

「え?」

「有下に呼ばれたんだろ?」

「……ああ。あなた、本、書いた人なんでしょ?」

「書いたよ」

「プロって?」

「商売なの?」と聞くとまた女が笑った。肋骨が揺れる。

「ちがうわ。こういうところに、たまにくるだけ」

「どうして?」

「バランスを保つのよ。人前に出ることがあるの。それでこういうところに来てバランスを保つの」

「要領を得ないな。君はなんの仕事をしてるんだ?」

「人前でピアノを弾くの」

「ピアニストなの?」

「ねぇ、なんの仕事をしているのかがそんなに大事なの? あなたの本にはそんなことひとつも書いてなかったけど」

「読んだの?」

「本を書く人ってみんなそういう喋り方をするの? 『いたずらをなさらないでくださいませ』的な」

「え?」

「さっき一人でぶつぶつ喋ってた」

「そういう本があるんだ」

「知らないわ」

「そういう本なんだ、老人が怪しい店に入って部屋に案内されると女の子が寝ている。その部屋で一晩過ごす。女の子は眠らされていて決して起きない」

「あなたは老人なの?」

「老人でもかまわない」

「自分が若いことを嫌がってるみたい」

「その本は眠っている女の子のことをこう褒めるんだ『それは音楽だった』って」

「全然わかんない。人間の体が音楽なの?」

「言葉にできないっていうことだよ」

「さっぱりだわ」

「小説でも、映画でもそうだけど面白かったとか面白くなかったとかってみんな内容のことを話すだろ。展開だとかキャラクターだとか。それで共感できないと結局好みがちがうからっていう話になる。じゃあ、好みってなにかっていうとその人の生まれや育ちで影響を与えたものっていうことになる。だから『なに』が好きかという話には結局、決着がない。こういう話は好きじゃない?」

「いいよ。続けて」

「でも『どうやって』表しているかになら上手い下手がある。その話し方は適切かどうか。内容の話は言葉でできるけど、音楽の話は言葉ではしきれない。音楽には『どうやって』しかないから。だからみんな『なに』の話をやめて『どうやって』の話をすればいい」

「それはなに? 喧嘩をしないようにしたいっていうこと?」

「ああ」

「その女の子は人それぞれの好みを超えるくらい綺麗だったってこと?」

「そういう理屈だと思う」

「ふぅん。あなたの言う通り、音楽の話のある面は他に比べてシンプルかもしれない。でも喧嘩は決してなくならない。ある面では決定的に残虐になる。12人の貴族がいるの。ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ドっていうと聞きなれた音。それにド・ド♯・レ・レ♯・ミ・ファ・ファ#・ソ・ソ♯・ラ・ラ♯・シ・ドってするとちょっと不安定。だから全音が公爵なら、半音は子爵くらいかもね。あなたの言ってるのはベートーヴェンのことよ。作曲を作文みたいにつくった。ある人はこう言いました。別の人はこう言いました。二人は激しく喧嘩をしましたが混ざりあってやがて和解しました。そういう風に音楽をつくった。はれたるあおぞら」

「かがやくくもよ」

「それで答えが出てめでたしめでたしのはずだった。あなたの言うように。でもワーグナーはこの作文をラブレターにした。男の人はこう言いました。女の人はこう言いました。二人は激しく喧嘩しましたが永遠にわかりあえません。それでロマンチックだっていうの。馬鹿馬鹿しい。12人の貴族にはそれぞれ調性というのがあって、あなたが知ってる曲はポップソングも演歌もクラシックもみんなこれのどれかなの。そうじゃないとただの雑音にしか聞こえない。シェーンベルクがそういう音楽をつくる。そうするとホラー映画のBGM用に黒板を爪でひっかく音みたいな音楽が出来上がる。音楽が貴族以外のものに手渡される。あるいはブルーズとジャズもまた貴族には知られていなかったまた別のコードなの。どこかの悪魔が黒人に教え込んだせいでそれが広がる。そうして今まで知られていなかった曲を解放する。いつ始まっていつ終わるのかわからない無数の不協和。メリハリがなくいつまでも繰り返す単調な音楽。小鳥のさえずり、川のせせらぎ、げっぷ、おなら、トイレの流れる音、誰かのいびき、ヤギの鳴き声、おじいちゃんの自転車のブレーキ。民主主義ってこれ全部を音楽として聞くっていうことよ。どうかしてるわ」

「それが僕の本に対する感想?」

「今度はピッチを放棄する。リズムだけにして言葉を羅列する。あなたは『どうやって』なら上手さが決められると言ったけど、それがそもそもまったく問題にならないとしたら? そもそもオリジナリティなんかなくてどこかで聞いた曲の自分の好きな部分を切って貼って繰り返しているだけ。それに合わせて踊る。怒鳴るし、喧嘩もする」

「君はそういう音楽が嫌い?」

「クラシックはヨーロッパの白人のものだった。ヒップホップはアメリカの黒人のものだった。日本人にもわかりやすいように言うと趣味の友達を大事にする人と、地元の友達を大事にする人がいた。インテリとヤンキーがいた」

 

 ニーナ・シモンの「シンナーマン」が鳴り始める。リビングの奥は赤いベルベットのカーテン。その奥はバルコニーになっていてさっきの裸体の群とDJブースが見渡せる。

「この曲、好き」

 そのときは宮下姓だったマユは、カーテンの向こうから身体を乗り出し尻を揺らして踊り始める。地下の巨大サウナには他にもこうしたアパートのようなものが立ち並び、バルコニーからの眺めはちょっとしたホテル街の様相を呈している。朝なのかも昼なのかもわからない。

 

 2011年3月11日。僕らが目を覚ましたのが昼過ぎで何もなかったはずのリビングと和室にはワインや日本酒の酒瓶、サングリア。ラベルを見るとチリとかイタリアの安くて麦茶みたいにがぶがぶのめるワインばかり。煮込みの入っていた脂の浮いた鍋。ご飯粒のこべりついた茶碗。刺身の並んでいた大皿。ひどい目眩がして自分の頭と実際とでは把握される腕の位置に7センチくらい誤差があるみたいだ。マユはまだ寝息を立てている。蒲団からはほとんど彼女の体臭らしいものは臭わない。

 二度寝してからまた、起きると今度は夕方になっている。部屋の外を少し出歩いてみる。タイルの街の人口は昨日の三分の一くらいになっていて、空耳みたいに柔らかいシンセサイザーの音がまだ鳴っている。ここは六本木なのに渋谷みたい。フロントにつながる出口に人が詰め掛け、誰かの怒鳴っている声がする。なにをもめているんだろう。しばらくはここを出られないとすれ違った誰かが言っていた。僕らの本はこの日を境に売れなくなる。どうでもいいことだ。それにそんなことが判明するまでまだ結構時間がある。本の売れ行きが人命に優先されることはない。まだしばらくはどうでもいい話題なのだ。宮下は結局部屋に一切戻ってこない。彼が来ないとここの支払いシステムもよくわからない。部屋に戻る。ベルベットのカーテンの向こうで目を覚ましたマユがまたバルコニーに身体を乗り出している。

「どうしたの?」

「なんだか、ここを出られないらしい。君は困る?」

「当分は平気。まだ夕食も運ばれてきているみたいだし」

「必要がないならあちらになんか行く必要はないんだ。こっちの水がおいしいよ」

「なにそれ?」

「なんでもない。ピザでも頼もうか」

 再び蒲団の中へ。