飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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「ゆゆしい音色」9:豚のナポレオン 【同人小説】

 1917年、マユの曽祖父にあたる男、北村和夫は四国のドイツ人捕虜収容所で事務員をしていた。1914年にはじまった第一次世界大戦の余波により日本はイギリスによる要請から日英同盟に基づいた大陸への進軍を開始する。戦局が連合国側優勢に傾くと青島をはじめとする旧ドイツ植民地で捕らえた捕虜を収容するため、四国LN市を含めた日本全国13ヶ所に捕虜収容所が建設された。とりわけN市に所在した収容所では捕虜に対する扱いが穏やかで収容されたドイツ兵たちは敷地内を自由に動き回ることが許された。彼らは日本とドイツ文化の架け橋となった。祝日には不定期にブラームスやベートヴェンの演奏会を開き、パン、チーズ、牛や豚のソーセージといった酪農製品の製法を伝え、12月には盛大なクリスマス・マーケットを催した。こうした環境の中で和夫は次第に異国の文化へと惹かれていった。それでも彼が音楽に関心を示すことはなかった。自分の家系が音楽家を輩出するなどとは思いもよらなかっただろう。

 彼が初めてソーセージを食べたのは視察に訪れた軍将校に用意された食事の毒味を務めたときだ。雄牛のひき肉だけを詰めてつくられた特級品。将校も「牛丼とはまた一味ちがった美味」と絶賛した。次のクリスマス、和夫は懇意にしていたドイツ兵からミュンヘナー・ブルストを購入し自宅に持ち帰る。しかし彼が初めて食べた特級品と再び出会うことはなかった。収容所の敷地内で飼うことのできる家畜には限りがあり、所内に出回るソーセージには本場のものを形だけ真似た得体の知れない雑肉の詰め合わせも少なくなかった。和夫の手に渡ったものもそうしたもののひとつだった。彼の妻と息子たちは家主が持ち帰った白いプニプニとした見慣れないものをまず食べ物だと認識できなかった。一口含んでみる。ゴムのような食感。指だけではなかなか千切ることのできない。なんとか思い切って噛み切ると口の中に馴染みのない香辛料の風味がつかみ所なくばらばらと散らばる。肉だ。

 和夫は度々ドイツ人から入手した見慣れない食物や置物を自宅に持ち帰るようになったが、家族の誰かがそれを喜ぶことは一度もなかった。

 

 15年後。和夫の三男、喜一は当時関西でも随一の規模で栄えた商業都市Q市に移り住み、八日堂という名の雑貨店で使用人になった。関東大震災の煽りを受けて東京にあった都市機能の一部は一時的に関西に移されていた。Q市もその恩恵を受けることとなる。ひとつ例をあげると関東に寄港していた外国船の一部が関西に寄港しはじめていた。

 明星軒という会社は日本の造船と海運業を担っていた日本船舶の元社員たちが立ち上げた商社で、主に外国人向けの船荷となる品物の調達を一手に引き受けていた。Q湾の港で八日堂の仕入れをしながら見慣れぬ文字の書かれた明星軒のビールやワインの樽が異国の貨物船に詰め込まれていく光景を見ているうちに喜一は父親がたいして旨くもない食品をたびたび持ち帰ってきていた幼い日の記憶を掘り返すようになった。

 喜一は八日堂の主人に話をつけ一旦四国の実家に戻るとドイツ人が去った後、和夫の元同僚が営んでいた食肉加工業へと赴きそこで細々と製造されていたハムやソーセージ、羊の薫製肉を八日堂の流通ルートにのせて売りさばくように話をつける。

 八日堂は関西を中心に輸入品の製造・販売事業を拡大する。豚と牛の肉については日本人にも馴染んだようだ。太平洋戦争開始時に贅沢品として取り締まりを受けるまで、喜一は八日堂を中心としたグループ会社のうち、食肉流通を手がける「北村食品」の経営者となった。

 戦中、事実上の破綻状態にあった同社は1953年までに企業としての体を回復。この年に「キタムラ・フーズ」と社名を改め、グループ本社の八日堂からはスーパーマーケット・チェーンの経営を任される。`63年には本社をQ市のサナダビルに移し、関西を中心にスーパー「キタムラ」をチェーン展開。現在も使われているコック帽をかぶった豚のマークは`72年に採用された。現在では北海道、宮崎、福岡、静岡に加工・処理場、大阪、千葉そして香川に生育場、北海道と西日本、東日本に販売ルートを保有する。井村が経営している養豚場は表向き個人経営となっておりキタムラ・フーズと正式なつながりはない。系列会社にはこうした零細農家が複数存在する。

 2005年にはスーパー「キタムラ」がアメリカに本社を持つコンビニ・エンスストア「カジュアル・マート」のフランチャイズ権を獲得、2011年にコンビニ経営の事業拡大と共にグループ内の経営再編を行い、喜一の甥であり当時事実上の経営責任者にあたった北村一俊が八日堂の取締役に就任。現在はこのコンビニ店舗の小売業、スーパー、ファミレスの「ジェイコブズ」、食肉加工流通の「キタムラ・フーズ」を中心にグループ事業が展開されている。グループ拡大に伴い関連会社全体の管理を行う持ち株会社「北村商店」を1984年に設立。喜一の長男である誠一は、食肉の加工流通を一手に担う「キタムラ・フーズ」の取締役を勤めている。誠一に課せられた今後の課題はグローバル経済の一体化に伴い、食品の製造業から小売業へと事業の主軸を移すことであると言われている。

 

*** *** ***

 

 それまでに義父から呼び出されることがあっても大抵市内の飲食店、北村商店系列の高級洋食店、店内奥の個室であることが多かったのに今回はまたずいぶんと歩かされる。待ち合わせ場所に向う途中、一番近いJRM駅の南口から公園を二つ、歩道橋をひとつ、小学校をひとつ、横断歩道を六つ渡ってからかなり大きな橋に出くわす。片側三車線の白い鉄橋。トボトボ歩いていれば渡りきるのにそれだけで7、8分はかかるだろう。橋の下に広がるS川の先が消えるところ、視線を飛ばすとその先に陸地は見えず水平線で区切られて空と直接の境に触れる。橋の上では、もしも誰かが隣にいてもまともに会話もできないくらいうるさく風が吹きつけごうごうと耳もとで怒鳴り通す。6月の末だったが天候が芳しくないことも重なって少し肌寒くコンビニで買ったビニール傘はすぐに骨を3本へし折られて使い物にならなくなった。橋を渡りきると表面のツルツルとした茶色い水面の田園が海のようにまた地平線まで広がり、水滴は間断なく田んぼの水面に打ち付けてやかましく波紋をつくり続ける。ぽつんぽつんと味気のない色をした、使われているのかいないのか定かでないいくつかの建物、そうした孤島のうちのひとつ、待ち合わせ先のカフェにたどり着く。キタムラ・フーズ代表北村誠一との待ち合わせ場所に着くまでに、僕はドブネズミみたいにべとべとになって少しがたがた震えていた。田園の真ん中にぽつんと佇む場違いなログハウスは、人嫌いの学者が観測のために建てた研究施設を連想させる。見慣れた真っ黒のBMWが店の前の砂利でできた広場、区切りのない駐車場に停まっているのを発見する。店内もまた外から想像できる限りのログハウスだった。店員は一人もおらず四つしかない丸太でできたテーブル、一番奥向かって左手の席にカジュアルな店のつくりには場違いなルイ・フェローのダブルのスーツ、淡いピンク色をした高級品のネクタイをした中年男が座っている。机の上にひじをついて鼻から下を隠しているがその下にはしっかりした四角い顎、固く引き締まった大きな口が隠れていることがわかる。白髪の混じった太い眉、つぶらな瞳、M字に禿げ上がりかけた額は頭髪が薄くなっているというより、彼の顔に意志の強そうな角度をひとつ彫り込むためにそこに存在しているようだ。短く刈り込まれた髪は癖がついて一本ずつ丸まり、灰色の小山を形成している。入口に秘書のみどりさん(ミントグリーンのチェック柄ワンピースに高いヒールを履いた欲の強そうなコンサバ女。でも3つ年下の僕にはいつも優しく接してくれるので義父と会うときに必ず彼女がいてくれるだけでだいぶリラックスすることができる)がいなかったら胃液が逆流しそうだった。

 僕が義父に会いに行くのは妻が殺した人間の歯を彼に渡すためだ。その人体で最も硬度の高い部位は豚の消化器官をもってしても溶かすことができない。500mLのペットボトルの中に入った何人か分のそれを渡すと中年男はなにも言わずに受け取ってしまった。マユの妙な癖を知っているのは僕と彼と養豚場の井村さんだけだ。それでこうしてほとんど年に一回弱の周期で彼と直接会っている。

 彼が「なにか頼むか?」と聞くので「アメリカンコーヒーを」と言うと、すぐにそれの入ったマグカップが運ばれてきた。コーヒーはみどりさんが運んできた。

「今日はもうひとつ話があって来たんだ」こちらが本題だったか。

 

 誠一が構想しているショッピング・モールが建設されれば駅からここまでたったの1分、無料のシャトルバスが運行する。バスには学校帰りの高校生、夕飯の買い物を企む主婦、暇を持て余した年金生活者たち。上から見ると翅を広げたカブトムシのようなかたちをしたモールの全体像。周りを囲む屋外駐車場に軸を据えるように飛び出たカブトムシのツノ部分にはアルベロベッロをモチーフとした石造りの丸天井を持つ一続きのアーケード、その下にイタリアン、中華、焼き鳥、お好み焼き、ロコモコ、たこ焼き、沖縄物産店、ビュッフェ、バルザック・カフェ、スターバックス・コーヒー。カブトムシの左の翅にあたるイーストウイング外のバス停に停車した乗り物からぞろぞろ訪問客たちが降りてくると、東口玄関から入ってまず目にするのは真っ白な壁に力強くロゴの書かれたHMをはじめとするファッション・ブランドの直営店舗。北側の建物裏手に回れば内科、歯科、口腔外科、眼科、耳鼻科、整形外科など各種クリニック、自転車屋、農協・イオン・地銀・メガバンクの各種ATM、各キャリア勢ぞろいした携帯電話ショップ、眼鏡屋、金券ショップ、靴のリペア、ペットショップ、美容院、宝くじ。建物西側には輸入品を中心とする高級スーパー、もちろんスーパー「キタムラ」の直営店舗だ。1階中央部分、広々とした屋内中央広場、インフォメーションセンターの背後にある角度の急なエスカレーターは登っている最中に建物の4階から1階まですべての店舗を見渡すことができるように設計されている。2階にはパソコンスクール、女性用下着、スーツ専門店、婦人服、エドウィン、写真屋、子ども向け写真スタジオ、家電良品店、葬儀案内、旅行代理店、ギャラリー、ベーカリー、パティスリー、ネイルサロン。3階にはフードコート、ランジェリー、ジュエリーショップ、書店、ナイキ、アディダス、無印良品、GU、ブランド品の買取店、楽器店、英会話スクール、個別指導塾、ヴィレッジ・ヴァンガード。店舗の最上階には映画館、カラオケ、ボーリング、ビリヤード場とバッティングセンター。どの階にいてもファレル・ウィリアムズの楽しげな歌が聴こえてくる。開店されれば毎週末、漫画のキャラクターを運転席に飾ったワゴンRに乗ってだぼっとした揃いのジャージに身を包んだ家族連れがヒップホップを聞きながらこぞって押し寄せ、5階より上の駐車場を埋め尽くすだろう。

 誠一は汗ばんだ大きな手を揉みあわせながら目線をそらして恥ずかしそうに切り出した。

「あの、なんだ、フユヒコくん、中華料理は好きか?」

「悪くないですね。今日ですか?」

「いや、8月なんだが。最近、仕事の都合でいい店を教えてもらってな。マユも一緒によかったらどうかと思ってるんだ」

「食事会ですか。マユさんはいい顔はしないでしょうね」

「ああ、わかってるよ。それでまず、君に先に声をかけたんだ」

「お義父さんはあの人のことを避けてるんだと思ってました」

「まさか。あいつが俺を避けてるんだ」

「やめましょうよ。子どもみたいに」

「君の言う通りだ。あいつがはじめて殺そうとした人間は、ほら俺だ」

「聞きました」

「なんだ」

「また殺されますよ」

「大丈夫だよ。これでもあれとは君よりいくらか付き合いが長いんだ」

「今さら仲直りとかでもないでしょう」

 そこで一度、誠一は目の前にある真っ黒でごく微量の本格的なエスプレッソをすすった。きっとものすごく苦いのだろう。

「9月の頭に、いつものほらリサイタルがあるだろ。国城さんのバーでやってるやつ。あれをちょうど一ヶ月前の8月6日にずらしてほしい。それでその前日にはできたらあいつとずっと一緒にいてやってほしいんだ」

「……」

「君には普段から割に感謝してるんだ。だから、その車や家のことは全然気に病んでほしくないと思ってる。自分から言いだすと嫌らしいかい? いや、でも本当にあんなものでもお釣りがくるくらいだと思ってるよ。まったく困った娘でね。あれと一緒に暮らすことのできる人間はそう、多くない。君みたいなやつは実際に金で買えないんだよ」

「はあ」

「重要なことだ。君は頭が悪くない。うちの役員連中に混ぜたって引けをとらないくらいだ。最近は人事の再編がごたごたしていてね。真面目で熱心な子はいるんだが、君みたいにあれこれ説明しなくても事情を飲んでくれる子というのがいないんだ。私のほうには、そういう人間を連れてくる才能がないみたいでね。さあ、次になんて言うと思う?」

「え?」

「次のリサイタルを8月にずらしてほしい。前日は娘を家から出すな」

「……」

「あれも小さい頃は中華料理が好きでね。リサイタルが終わったら、客を呼んで食事会を開きたいと思ってるんだ。映像を見せたら、先方がどうしても娘の演奏を聴きたいと言っていて」

「誰がくるんですか、そこには?」

「君の知らない人だ」

「娘さんは人は殺しますが、頼まれて殺し屋のような真似はしないでしょう」

「それで君に頼んでるんだ。君にしか頼めないことを」

「まあ、無理でしょうね」

「……そうか。まあ、そう言うとは思ったよ」

「……そうですか」

「でもだ、それでも君は最終的にはきっとYESと言うだろう。ただ、まだ状況が出来上がっていないだけなんだ。家に帰って少し、考えといてくれよ。堅い話はこれで終わり。時間はあるかな? 街のほうに戻って飯でも行こうか」

 あたりがすっかり暗くなってはじめてこのだだっ広い田んぼの少し離れたところに黄色い蛍光ライトが光り輝くガソリンスタンドがあることに気がついた。コンテナに荷物を載せた中型トラックは、ガソリンを入れている最中でアルバイトの威勢のいい声がたまにここまでよく響いてくる。これから高速道路に入るのだろう。長い旅になりそうだ。