飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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「ゆゆしい音色」10:ゆゆしい音色 【同人小説】

 「プロになろうと思ったことはないの?」

 羽生の質問はマユの耳には届かなかったのだろうか。こんなにいい耳をしているのに? 平らげられたばかりの何枚もの皿、中華料理の残骸を隔てて座る彼よりも少し年上の女。彼女のとりわけ高性能な耳は意味を持った言葉よりも周囲の環境にセンサーを向ける。実技の定期試験を済ませたばかりで、マユの伴奏にやられてしまったのかさっきから震えっぱなしの羽生の手。店内に響く二胡が奏でるサザンオールスターズや山口百恵。厨房ではおたまが中華鍋にあたってつくる規則正しいリズム、コンロに火がつく、店内に他の客はおらずどこかの窓が開いているのか正面の通りを行き交う車の走る音がする。

 マユの前の夫、宮下雅秋もまた彼女と同じくらい高性能な耳を持っていた。ピアニストがひとまわり半も年の離れた若い妻に最初に教えたのは音とは空間を構成する骨組みだ、ということだった。

 伝統的な調性から離れることを試みた現代音楽作曲家の中には周囲の環境音に音楽の可能性を見出す者もいた。19世紀末、プラハのカフェでああでもないこうでもないと議論する市井の人々の会話を楽譜に起こそうとしたヤナーチェックの実験や、20世紀のおよそアメリカ人らしくないアメリカを代表する作曲家メシアンが鳥のさえずりを録音しリストアップし、また同様に譜面上に再現しようとした「鳥のカタログ」にはその例を見ることができる。

 こうした実験的な音楽がクラシックの強固な理論の枠を背景にできてきたことを考えるなら、こうした実験者が日本人でないことは当然だろう。しかし現代日本ほど音楽外の音が豊富な国も珍しい。右翼の街宣車、時代錯誤な軍歌と耳障りな街頭演説、選挙カーが拡声器越しに繰り返す投票への呼びかけ、途切れることのない車の流れ、エンジン音、鳴らされるクラクション、急ブレーキ、信号機が奏でる鳥のさえずりや唱歌のメロディ、踏切。屋内に入ればそうした「メロディ」はさらに増える。飲食店、各種小売店舗、百貨店に流れる有線放送、コンビニのドアが開くと呼び鈴代わりにまたメロディ、スーパーの食品売り場はキャッチーでミニマルで単調なフレーズを繰り返す。独自のブランドを持つ飲食店や全国展開する大企業の小売店舗は、その店に入りさえすればいつでもどこでもよく聞き知ったメロディの安心感で顧客を包む。その気分を利用しながら企業はシェアを広げる。互いに隣りあった小さな店を人通りの多い道路沿いにいくつも並べる日本の小売業者。経営者たちはミュートするよりもより大きく特徴的な音で他の音を覆い隠すほうが宣伝と防音の両方を兼ねることができて効率が良いとでも思っているのかもしれない。街中でスマートフォンのビデオカメラ機能を起動するとそこに意図せず大量のノイズが録音される。機械は人間の耳ほど要領よく聞きたい音だけを選択できない。

 一定以上の大きな音が持つ効果は音が何も聞こえなのと同じなので、音の大きさに関する競争はすぐに頭打ちを迎える。そこでポップミュージックは耳に残るメロディをめぐって別の抗争をはじめる。ポップミュージックの起源はフォースターのつくったいくつもの歌謡曲、ゴスペルとアフリカの民族音楽に起源を持つアメリカ黒人奴隷たちの黒人霊歌、ジプシーや東欧ユダヤのクレズマーにその起源をたどることができる。

 90年代の終わり、ヨーロッパでピアニストとしての活動を中心に行っていた宮下は、日本で実用音楽をつくって小遣い稼ぎをしていた。彼が北村誠一と知り合ったのもキタムラ・フーズが販売していたレトルト食品用のCMソングを彼が製作したことがきっかけだった。商品はヒットし、CMの歌詞はその年の流行語大賞にランクインした。

 CMでは、東欧風の寂れたダンスホールでネクタイを緩めた髭面の小汚い男が酒を飲みながら舞台を眺めていると、そばかすまみれの愛想のないウェイトレスがポークカレーを彼の席まで運んでくる。切り返して小さなステージをカメラが映し出すと客席の明かりがおちて真っ赤なカーテンが開き、小さな邸宅が描かれた書き割りのセットを背に、スポットライトに照らされた小さな小さな日本人の女の子が二人、キューブリックの『シャイニング』を彷彿とさせるシンメトリー構図で立っている。ドアーズの『ハートに火をつけて』によく似たカラフルな音階。そこからいきなり転じてドラムが奏でるズンチャズンチャに合わせて電子バイオリンとクラリネットが歌い出す。ダンスミュージックにも宗教音楽にもディズニー映画のカーニバルシーンにも聞こえるどこかで聞いたような音楽。うまいのか下手なのかよくわからない甲高い声で女の子たちが害のない歌詞を口ずさむ。

 

 「♪『うわさのポーク・カレー』

 

 帰ってこないで〜

 ポーク・カレーができるまで〜

 

 帰ってこないで〜

 ポーク・カレーができるまで〜 」

 

 女の子二人が歌っている間、古い映画のエンドクレジットみたいにポークカレーの成分表示が字幕として現れ、最後にコック帽をかぶった豚のロゴが現れるとCMが終わる。

 流行したのは商品とCMソングの歌詞だったが、このCMの影の立役者である宮下がとりわけフランスで人気の高い技巧派ピアニストだったことがわかると誠一は彼に日本滞在中の住居を提供し、娘の何人目かの家庭教師にした。

 マユはまず、その新しい講師に大変音楽的な質問を投げかけた。

「どうしてばかばかしい曲ばかりつくるの?」

「そうしないと売れないからさ」

「売れる必要があるの?」

「君は本当にそういうことで苦労をしたことがないんだね」

「……どうしたら売れるかわかってやってるの?」

「売れるものには必ず買う人がいるんだ。あたりまえだけどね。ものを買う人はみんな、それを所有したいと思って買うんだよ。いつでも自分でどうにかできるようなところにそれを近くに置いておきたい。世の中、そういう寂しい人が多い。知識みたいなかたちのないものも同じだ。理解するっていうのはひとつの所有なんだよ。いつでも頭の中から出せるようにしておくということ。学問や教育が持つステータスっていうのは知識をひとつの財産としてみなす人がそれだけいる証拠なんだ。だから、音楽を売るのに大事なことはすぐに口ずさめるもの、理解しやすい歌をつくることだ。耳に残るメロディというのはその人の頭を一時的に支配してしまう。それで元の音楽を聴くとすっきりする。麻薬と一緒だよ」

「作曲をする人ってみんなそんなにつまんないことばっかり考えてるの?」

「つまんないか。そんなこともないよ。誰の耳にも残らない音楽をつくろうとしている人もいる。あるいはいた。そもそも音楽というのは日々、大量につくられているんだ。Sound Flapperっていうウェブサイトだと国ごとの作曲登録者数はオーストラリアが300人、カナダが700人、スウェーデンとフィンランド、アイスランドを合わせるともう3000人を超える。それでも君はそういう人たちがつくった音楽を多分ほとんどきいたことがないだろ」

「そうね。きっとないと思う」

「音楽だけを聞く愛好家というのはとても限られているから、作曲家だって自分がそれだけで満足に生計を立てていけるなんてほとんど誰も思ってもいない。ゲームやCMの曲を作曲したり、ポップ・アイドルに歌謡曲を、大学の交響楽団や中学・高校のブラスバンド部に練習曲を書き下ろしたりその他多くの僕みたいな作曲家や演奏家が講師として活動している。そうしないと生活はままならない。それは必ずしも悪い仕事じゃないしある場合にはものすごく儲かる仕事になる。一部の音楽家はそういう仕事を嬉々としてやっていてまた同じくらいの音楽家がそういうことを嫌嫌やっている。そして大半の音楽家は自分の手元にきた仕事をなんの感情もなく黙々とこなしている」

 それから彼は音楽と感情についての話をした。彼によると音楽には固有の感情というものはなくそもそも感情とは人間に特有のものということだった。感情をメディアとするならそれが宿る媒体は人間の表情と声である。音楽に感情があるように見えるのは声を連想させるからに過ぎない。それはキリスト教の聖歌隊を含めた多くのプリミティブな宗教儀礼において声楽が重視されてきた理由だった。直接の声から離れて器楽の構造的な積み重ねに価値を見出すことは、知的で冷たく美しく非人間的な活動だった。

 また、メロディとは音楽の輪郭のことだった。

「僕は長くヨーロッパで暮らしていたんだ。電車に乗っていると肌の黒い東欧の移民がアコーディオンやコルネット、クラリネットやギターを弾きながら入ってくる。聖者の行進とかクリスマスソングとかモーツァルトみたいな耳障りのいい音楽。昔、それはジプシーの音楽だったんだ。ズンチャズンチャズンチャズンチャってすぐに口ずさめるような音楽。そういうのは元々宗教音楽だった。繰り返すということは宗教的にとっても商売にとってもすごく重要な要素なんだよ。単純に、ポップでキャッチーだろ。

 クラシックの伝統の上ではこうした音楽は元々下品なものだった。それで古典音楽の成立のずっとあとになって愛国主義を掲揚する政治的な運動と一緒に下品な音楽が器楽曲の中に取り込まれた。メロディと感情と繰り返し。それは一つのアイデンティティとなって民族とか、市民といったものをつなぎとめるようになる。

 現在、元々東欧ユダヤの音楽だったものはたとえばディズニーの音楽みたいにありふれたものにだんだん変化する。ニューヨークのユダヤ人街にある劇場で流れている伝統的なユダヤ人劇場のエレクトーン弾きはもう何百年も前から同じ音楽を引いているはずなのに、その音楽はメリーポピンズそっくりなんだ。ヨーロッパを逃れたユダヤ人の多くがハリウッドやニューヨークに移り、一部は黒人に起源を持つ別の音楽と融合する。それはジャズになり、ブルーズになり、カントリーになった。ゴスペルは、R&Bを産み、ロックンロールを産み、ソウルを産み、ファンクを産んだ。ロックン・ロールをある種のパフォーマンスに堕してしまったのはチャック・ベリーで、エルヴィス・プレスリーやビートルズの時代になると軽薄で残酷で独りよがりな子どもであり続けることを人間の最良のモデルみたいに謳われるようになる。

 僕がまだ19の頃、ニューヨークに1年半だけ暮らしていたことがある。そこでブエノスアイレス出身のユダヤ人にピアノを習っていたんだ。20歳になると、17も歳上だったけどユダヤ教に改宗してイスラエルまでいって彼女と結婚した。彼女は乳がんにかかって40になる前に死んでしまったので結婚生活は1年も続かなかった。けれどその間にいろんな話を訊いた。安っぽい都市伝説みたいにユダヤ人の宗教音楽は姿かたちを変えていたるところに入り込み、世界中に流通した。それは金融業の発展と、時期も担い手も変化のかたちも共通する歴史をたどった。

 妻は死ぬまでの半年間、シェーンベルクの音楽を聴いていた。まったく心地の悪い曲だった」

 それは耳に残らないための音楽のひとつのかたちだった。1923年、シェーンベルクは自身の考案した新しい作曲方法を「相互のあいだの関係のみに依存している12の音による作曲の方法」と呼んだ。従来の音楽が持つ調性を死ぬまで批判し続けた。そこには特定の誰かしらに寄り添うための傾きを持ってしまう音楽への批判が含まれていた。

「それから、戦争があった。余裕のない時代だ。あらゆる文化的な活動は歴史の中での自分たちの成果が失われないようにするだけで精一杯になり、発展することのない足踏みを強いられた。政治は国がシンプルな一枚岩になることを望み、個々人のプライベートな思考をできるだけ制限しようとした。具体的で物質的なものだけが望まれ、空想的で思索的なものは取り払われた。

 それが終わると今度はまったく反対の方向に文化を揺り戻そうと政治家が躍起になった。シェーンベルクの技法は思索的で個人的な音楽の急先鋒となった。彼の技法は個人的なもの、なにからも自由なもの、政治的に正しいものとして流行した。でもそれはクラシックにおいてだけの話で、キャッチーでもメロディアスでもない音楽はそもそも音楽を聞きなれない人にはあまり価値のないものだった。

 戦後、大衆の音楽だったロックもジャズも技法以上にパフォーマンスを重視した。しかしこの二つの中から前衛がまた生まれた。モダン・ジャズとビバップは戦前の大衆音楽だったスウィングの形式を切り開き、クラシックが何年もかけて行ってきた厳密な構成に対する綿密で徹底的な破壊と再構築を即興のひらめきの中で行った。ロックからはビーチボーイズとビートルズが東洋音楽の楽器や犬の声、信号機、踏切、車のエンジンや自転車のベルを取り入れて音楽の民主化をおこなった。前衛は『なんでもない芸術』を目指した。保守的でも、進歩的でも、民族主義的でも、個人主義的でも、キャッチーでも、メロディアスでも、無調でもないものを。

 そうした音楽のひとつはミニマリズムとして帰結した。最低限を意味する言葉だ。短い繰り返しのフレーズが少しずつ変化しながら奏でられる。それは確かにCMソングのようにキャッチーだけれどそこまで派手でもない。僕らの生活のように地味で穏やかだった。それは同じ言葉を繰り返すお祈りでもあった。『繰り返し繰り返す繰り返し』。

 メシアンは音楽を数学的な活動だと考えていた。彼は音楽とは数を数えることだと言った。それは極めて平等な音楽の聴き方だった。

 こうして音楽はその他の文化活動と同様に二つの極を形成しながら営まれるようになった。ひとつの極は内向的で、思索的で、抽象的で、絶対主義で理想主義的な自室に引きこもって作曲を行うベートーヴェンのそれであり、ヲタク的であり、完璧な録音というかたちに結実した。もう一方は外交的で、実用的で、即物的で、相対主義なリアリズムと説得力を志向し、ヤンキー的であり、聴衆と共有される音楽以外の要素を含めたパフォーマンスとして結実した。

 極めて相対的な目先のパフォーマンスとしての側面に特化して発展したロックンロールは60年代にポップカルチャーとして最盛期を迎えると、70年代に技巧的な方向性のプログレッシブと、ショウとしての方向性を持つグラム、そしてヴィジュアル系とも呼ばれるものへ分化する。クイーンはその二つを一時的に統合したが、パンクがロックを一時的にほとんど政治的な運動にしてしまい、90年代に入るとほとんど自閉的に行き詰まった。社会現象となるような「ロックスター」はYouTubeSpotifyを通じて無料の音楽が流通するようになるとほとんど姿を消した。音楽をつくる人は増え、音楽だけをつくる人は数を減らした。録音された音楽と同時に、作曲者や聴衆もまた自由に流通し、ネットワーク上に個別的で小規模なコミュニティを形成した。

 DJ文化はもともと、ジェームズ・ブラウンの歌の合間に入るギターソロの部分だけをレコードで繰り返しかけることにはじまった。他人がつくった音楽の気に入った部分だけをつぎはぎのコラージュにして演奏するとまた別の作品として消費された。ヒップホップは純粋な理論としてよりも勝敗を競うゲームとして、地域色の強い演芸として、町内会のお祭りとしての音楽の特性を強め、親しまれた。高度に情報産業が発達した社会の中で近さと狭さは唯一信頼できる確かさになった。

 我々がそこに住んでいる音楽はそうした、話さなくてもわかる人に囲まれて、話してもわからない人同士を互いに排除しあったユートピアをつくりつつある」

 宮下はそこまで話すと静かに眠った。

 

 マユが宮下についての話をし終える頃、羽生と彼女は中華料理屋をあとにして大学の前の大きな交差点で信号機が青に変わるのを待っていた。

「それでプロになる気はないんだ、結局」

「意味がないのよ。演奏会だって本当はあんまり好きじゃない。人前に立つと自分で制御できないくらいたくさんの情報に晒されてるみたいになってオーバーヒートしそうになるの。そもそも人と関わるようなことがあんまり好きじゃない。でも、少しくらいは誰かと関わっていないと精神的にまずいこともある。そういう意味では人と関わる活動の中で演奏会が一番ましなの」

「音楽が空間を構成するものならマユさんが自分のための空間をつくるっていうことはできないの」

「……触るものみな傷つけて寄せ付けない音楽」

「どうしてそんなふうに考えるかな。大体どんな音楽なんだそれは」

「わかんない。でも、ありがとう。今までそんなこという人は一人もいなかったのよ」

「マユさんが人を寄せ付けてこなかっただけだよ。旦那さんとはそういう話をしないの

?」

 羽生はそこのところだけ少し遠慮がちに訊いた。

 彼女は答えることなく、まだ赤のままの横断歩道を渡ろうとした。彼女の視線の先には道路を挟んで向かいのドラッグストアに入っていく若い男女がいた。女のほうは木村濃子だった。クラクションを鳴らしながら軽トラックが走りこんできて、轢かれそうになるマユの腕を慌てて羽生が引っ張った。信号が青になるとマユは羽生の腕を静かにはずして濃子の方に向かっていく。