飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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ゆゆしい音色11:おわかれ 【同人小説】

 裸の女はウー、ウーと寄せては返すドップラーなサイレン音に導かれ、トネリコ模様があしらわれた薄いミントグリーンのカバーがついた羽毛布団を羽織ると少女に戻ったみたいに勢いよくベッドを飛び降り窓際まで駆けていきカーテンを開いて布団の裾を重たいドレスみたいに踏まないようにすっとつまみ、干からびて甲にあたる部分がはずれかけたサイズの合わないぼろぼろのゴムスリッパをつっかけて、冷たくなった金属製の物干し竿ごしに真夜中の住宅街で音の主をさがしまわる。布団をはぎとられて全裸の僕、濃子がいつも「この世でもっともみっともない姿」というので、誰もいない部屋の中でも恥ずかしそうにボクサーパンツを穿きなおす。ベッドの下にしまってあった猫のキャラクターのブランケットを羽織って彼女に続きベランダへ。斜め前の保育園には灯の消えたイルミネーションとクリスマスツリー。暖房をつけっぱなしにしていたせいで空気の籠っていた寝室から外に出ると、直に肌にあたる真冬の冷気がしばらくの間は、心臓に悪いくらいちくちくと目を覚ましてくれて心地よい。向かいの高層マンションに消防車の真っ赤なランプの光がイルミネーションみたいにプロジェクトされ、サイレンは遠ざかりの音に変わる。住宅地の中心を流れる疎水の向こうでなにかの建物が結構派手に燃えて、向かいの高層マンションに与えられた不動明王のうしろにあるやつみたいに濃い真っ赤な炎の輪郭、メラメラと揺らめきながら彩度を増していく。沈む位置を間違えた太陽みたいだ。不謹慎にも濃子は「きれい」とつぶやく。

 

 去年の12月、濃子の自宅での出来事。

 今は7月。梅雨が明けていよいよ強くなる日差し、首元のよれたTシャツ、溜まった汗、8時半を過ぎるともう寝続けていられないくらい蒸し暑い。僕は自宅に一人だ。布団を畳んでから和室の畳に寝転がってそのまま眠ってしまったらしい。洗面所でピー、ピーと機械の鳴く音がする。洗濯機が止まった。

 濃子と連絡がつかなくなって1ヶ月半。最近よくこの夢を見る。ひどいときには、この夢を見ている最中に、濃子がこんなに近くにいるなんて夢にちがいないと気がつき、夢から覚めるとまた同じ夢を見ている。こうして現実には濃子がいないという事実になんども幻滅しながら本当に目覚める頃にはぐったりと疲れている。

 心と体を健康に保ちながら妻と暮らしていくために、濃子の存在は不可欠だった。僕は妻のことが好きだし、日々彼女を尊敬し可能な限り親切に接するように努めているけれど、それでも尚彼女の精神生活は僕よりもずっとじめじめと濁った暗いところにあって近寄るものみなくたくたに消耗させる。そのように彼女が大きな感情、突然のヒステリーや破壊衝動を備えているために彼女の近くにいることが僕を居心地よくさせている部分があることもよくわかっている。彼女は僕の重しであり、ふらふらと薄弱な僕の意思がどこかに飛んでいって消えてなくならないようにいくらかつなぎとめていてくれている。

 ただ、そうしたものとは全く別なものにときどき渇いてしまう。妻のしてくれないことを濃子はしてくれるということだ。僕は今でも濃子の背中でブラジャーの留め金を外し、それが胸から外れる瞬間の感動や自分の手が彼女のショーツをずり下ろすときの少年に戻ったようなわくわく、彼女の肌から立ち上る高級脂肪酸、汗と柔軟剤の混ざった香ばしい香り、うっすらと産毛の生えた若い女の肌の感触をはっきりと想像することができる。自分の体を見下ろしたところにいる濃子と目が合い、その潤んだ瞳が、山奥の清流に沈んだ真っ黒な丸石みたいに輪郭をうるうると揺らすのを見て、彼女の動きに合わせて今まで決して感じたことのないような強いエネルギーが下半身から吹き上がるのをまざまざと思い出すことができる。

 僕は濃子に一切知的な会話を求めなかった。あるときは酔っ払って「わんわん」とか「うんうん」とかばかみたいな言葉遣いだけで会話を済ますこともあった。それで、彼女もそうした関係を望んでいると僕は信じていた。彼女には一時的な癒しだけを求めていた。僕に一定の好意と尊厳を示してくれていくらか淫らに振る舞うことのできる女の子であればそうした役割は誰でもよかったのかもしれない。それでもそのときそれをしてくれたのは濃子だけだった。今、僕の手元には女の子は一人もおらず、そのせいで僕はどうやって濃子を手に入れたのだろうと惨めに考えながら妻の洗濯物を干している。全く弱ってしまって自分が元気を出すための情けない手段について思いを巡らしている。

 米を研いで、炊飯前にそれを30分水につけたままにするとサンダルを履いてコンビニにでかけ、週刊誌を読んで、クリーニングに出しておいた妻のドレスを回収し、ポストに入っていた銀行と保険会社と区役所からの郵便物を掴んで自宅に戻る。週末までに銀行に行かなければいけないこと、保険と共済関係の書類をまた同様に週末までに投函しなければならないことが明らかになった。通販カタログのサンプルとピザ屋のチラシ、住宅展示場の案内は一応テーブルの上には置いたけれど夕方までには捨ててしまうだろう。

 30代に入ったばかりの自分は本来なら働き盛りの年齢にちがいないけれど、僕が今以上、社会にリソースを投入することはきっとないだろう。大学院を卒業してから午前中は論文を書きながら、午後から夜中まで働いていた時期というのがあった。あの頃のことはひとつも思い出したくないし、あの頃に付き合っていた人間が今どうしているのか僕は一人も知らない。

 確か歯医者に行ったのもあのときだ。奥歯に痛みを感じたので歯科医に診てもらいにいくと、それは虫歯ではなく寝ている間に歯を噛み締めているのだと言われ、萎縮して小さくなっている歯茎を鏡で見せられた。腹にガスがたまって呼吸が浅くなるので内科で診てもらえば自律神経の問題だと言われ、呼吸法と肩のマッサージに通うように整骨院を紹介された。整骨院には結局行かなかったが、内科医の予言通り、首まわりの筋肉が固まっていたせいで僕は慢性的な眩暈に見舞われ、季節の変わり目に必ず熱を出し、なにもしていないのに毎朝起きると身体中が筋肉痛で軋みはじめた。その頃の楽しみといったら、高尚なものはひとつもなく、学生の頃に好んで見ていた映画や本の鑑賞には体力や集中力が追いつかなくなり、週刊誌の漫画やネットに無料で転がる深夜アニメ、グラビアのまとめサイトや、2ちゃんねるの広告にあがってくるような成人向けサイトだけに目が向くようになっていた。暇があれば用もないのに携帯でSNSを開いて自分にはさして関わりのない人たちの近況報告をぼんやりと眺め、夜はコンビニ弁当を食べながら野球中継にかじりついた。論文の資料以外で活字を読むことはほとんどなくなった。毎日午前3時、ベッドに入る時間になると眼窩から眼球がこぼれ落ちそうに痛くなり、自分の顔を見るとその痛い部分にそって皮膚が青白くなっているので怖くなって、だんだん鏡自体見なくなった。週に一回は失明する夢を見た。その頃に比べたら今の生活はかなりまともだ。

 買い置きしておいたパスタを茹でると、買ってきたたらことバターと一緒にフライパンで炒め一人分の簡素な食事をつくった。ベランダにつながる窓を開けっ放しにして、通りを行き交う車の音が入ってくるのを聞きながら僕はさっき駅で見かけた女たちのことを考えていた。

 家から一番近いスーパーに行くためには、近所の私鉄の駅まで行って鉄橋に登って線路をまたがなければならなかった。女たちは駅のホームにいた。二人連れで、二人ともきれいな女だった。きれいな女ならそれほど珍しくもないが、彼女たちはもともと綺麗な外見を服装や化粧といったものできちんと手入れし、もう長いこときっと幼い頃から人の目を引くことに慣れっこになっている女でもあるようだった。どちらも二十歳そこそこだろう。片方は髪は茶色っぽく、胸のかたちがはっきり出るぴたっとした黄色いニットの半袖、デニムのショーパンを穿いて長い足をむき出しにしていた。眼がネコ科の動物のようにするどく開き、顎のところにほくろがあるので豹のような顔をしていた。もうひとりは白いブラウスに藤色のパンタロンを合わせた落ち着いた格好をしていて、よく見るとブラウスにパンタロンと同じ色の糸で刺繍が入っている。長く伸びた真っ黒な髪を片方だけ耳にかけ、下がった目尻、先は丸まっているが筋の通った鼻、眉間のところで左右対称な三角形をつくるように整えられた太い眉、どこかイラストに描かれた白くて神秘的な象を思わせた。

 鉄橋を渡りきったところに作業服を着くずした中年男がいて、彼女たちのことを足先から頭まで胸や尻の正しい位置を点検するように見回している。彼女たちはその中年男のことを一度ずつちらっと見る。お互いの立ち位置を交代するように歩き回りながらこそこそとささやきあう。そのときの嫌悪感をたたえた表情や、きゃっきゃきゃっきゃと音を立てる笑い声が鉄橋の上まで響いてきて、彼女たちを最初に見つけたときの高揚感は僕からひいていった。だんだん気分が悪くなって怖ろしくなってしまった。こういう女たちだけがつくるたまらなく残忍な表情というのがあるのだ。軽蔑と無関心。僕はそれをこの二人にはっきり確認した。彼女たちはほとんど濃子と同じ年代だった。

 きっとあの中年男がいなければ僕もまた彼女たちのことを舐め回すように見ていただろう。彼女たちはきっと地元の私立のお嬢様女子大に通う学生で、一生のうちに2年か多くとも3年くらいしかない一番きれいな時期をああして謳歌しているのだ。そのあいだにテクノカットの広告代理店の営業マンか、医学部に通う開業医の息子と結婚して、最盛期を過ぎたあとはその美しさにすがりつくためにより多くのお金を使って、一番綺麗な「私」を再現するために笑顔を引き延ばし、胸を豊胸し、尻を吊り上げて青春を延長しようとする。

 僕はなぜか、なにかのバラエティ番組で叶姉妹の姉のほうが「メンズは日々生まれてくるけれど、美香さんは一人ですもの」と言ったのを思い出した。それはまさしく、ある種の男性が若い女をもののように見るときの価値観をまるっきりひっくり返した冗談、アリストパネス的な喜劇のセリフみたいだった。

 午後になるとBS放送で『ベニスに死す』がかかっていたので見始めたが、30分も見ないうちに飽きてしまいテレビを消して眠った。胎児のように弱々しく丸まって。

 目覚めるとと空はこの世の終わりみたいな色をしていた。沈みかけた夕日に照らされて、紫色のグラデーションを帯びたいわし雲、ペンキの乾いていない舞台セットみたいに空はこぼれておちてきそうだった。それより先に洗濯物をとりこまないといけない。ベランダを見ると濃子が立っていた。

 影になって顔は見えなかったがそれははっきり濃子だとわかった。デニムのショーパンを穿いて、見たことのないバンドのロゴが描かれた白いTシャツを着て、前に会ったときよりも少し髪が伸びていた。こんなに脚が長かったっけとほれぼれしたけれど、その脚は必ず僕に昼間見た豹のほうの若い女を思い出させた。

「…濃子?」

「……起こした?」

「なんで、うちにいるんだ?」

「ごめんね。来たらいかんかったよね。奥さん、何時に帰ってくるの?」

「わからない。いつもいつのまにかいなくなってて、知らないうちに帰ってきてるんだ」

「猫みたいだね」

「ああ。今まで、どこにいたんだ」

「ちょっと忙しかっただけだよ。でもね、またしばらく戻ってこれなくなるの」

「『戻って』って?」

「あ、洗濯物、しまっておいたから」

 ベランダの入り口のところに僕の分と妻の分の洗濯物がきれいに畳まれていた。

「もう、行くね」

「そうか」

「少しだけ無理して来たの。本当は。でもさすがにもう行かないといけない」

 足音がなかった。彼女はリビングルームを横切って玄関から出て行った。なにが起こったのかわからず、10秒かもしかしたら10分くらい僕はぼーっとしていた。けれど急に寂しくなってきて、ぞわぞわといやな不安が押し寄せてきた。部屋の中が暗くなるのが怖くなって外に出て、濃子を探して何時間も自宅の周りを歩き回ったような気がした。でもそれは実際には、1時間にも満たない時間だった。身体が疲れてくると少し冷静になって、ウィスキーをスーパーで買って飲みながら自宅に戻った。とても自暴自棄に酔っ払ってしまいたい気分になって酔いが回るようにと飲んでいると、自宅に帰る直前くらいにまっすぐ歩くことがままならなくなってなんとか自宅に帰って玄関に倒れこむ。酔いは眠気を誘うのを通り越えて、目はぎらぎらに冴えてくるが、それでも身体の節々に乳酸が出来上がってもう起き上がることができない。いつも飲んでから思い出すがそもそも僕はそれほど酒に強くないのだ。頭ががんがんして、自分の体がどこにあるのかわからなくなった。

 次に目覚めたとき、多分真夜中だった。リサイタルもないのに妻は男の死体を運んで帰ってきていた。背の高い、若い筋肉質の男だった。死体をガレージに置いてから、僕をまたいで自宅に入ると冷蔵庫を漁って、何か食べて風呂も入らずに寝室に入っていった。彼女の左目には真っ青の大きな痣ができていた。

 それから携帯電話が鳴る。知らないIDからラインのメッセージが届いていた。

 

「連絡が遅くなってしまってごめんなさい。仕事が忙しくて。来週あたり少し時間ができそうなのでご飯、連れてってください。予定の連絡、待ってます 奏江みき」