飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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ゆゆしい音色14:お祭り 前編【同人小説】

 8月6日。

 19時からの公演に合わせてリハーサルは中止しなければいけなくなった。本来なら3の倍数の月にしか行わなかった定期のリサイタルをずらしたせいで「8月なのにものすごく9月みたいな気分だ」と文句を言われながらも僕はなんとか妻にピアノを弾くことを同意させた。こうした変更に彼女の父親の意向があること、彼女からしてみれば僕はそのにっくき父親の言いなりになっているようにしか見えないことが交渉を難航させた。それに加えて面倒だったのは前日に彼女が誰一人殺すことのないよう、寝室の隅に置かれた彼女が背筋を鍛えるためのぶら下がり健康器に膝をひっかけた状態で宙吊りにし、ロープで手足を縛ったまま24時間見張らなければならなかったことだ。コウモリのような体勢でにもかかわらずぐっすり9時間眠って日の出とともに目覚めた妻は、睡眠不足の僕にこの仕打ちの埋め合わせに出演条件をつきつけた。その条件も本当はずっと前から準備されていたようだった。ひとつめはいつもの狭いバーに新しい巨大なピアノを入れることだった。リハーサルができなかった主な原因はこの馬鹿でかい搬入物にある。

「べ、べ、べ、べーぜんどるふぁー?」

 妻のつきつけたもうひとつの条件、今日のゲスト演奏者ヴァイオリニストの羽生くんの上品な薄い唇を真似ながらその日、生まれて初めて聞いた単語を丁寧に繰り返してみる。

「はい」

 この楽器のせいで僕は後からリハーサルの重要性を思い知ることにもなる。顔が小さいせいで首が長く見える髪を短く刈り込んだ塩顔の青年は勘違いでなければ初対面であるはずの僕のことをさっきから哀れんで目差しているように思えた。

「村西さんは、マユさんがプロになったほうがいいとは考えないんですか」

「本人に聞いたら?」

「聞きました」

「なんて言ってた」

「補正ブラとミニスカートで自分の顔写真がでかでかと貼られたCD売ってまわるくらいなら死んだほうがマシだって」

「ああそう。じゃあそういうことだよ」

 マユはこのしゅっとしすぎて、個性が霧散しそうになっている薄っぺらい青年の顔にあのクソ長い説明というか、前の旦那の思い出話を浴びせたのだろうか。あるいは実際にそうしかけてから終わりが見えなくなり途中でやめて、照れ隠しの適当ないいわけで蓋でもしたか。彼女は自分の夫が作曲と演奏活動の中で錯乱して死んだことについてまだ決着が付いておらず、当の本人が亡くなった今、その決着はもうずっとつくことがないのかもしれないと諦めはじめている。そう思うと彼女のことも可愛くも思える。あるいは、この青年はその決着に関する説明の、僕の知らない完成形を妻からもう聞かされていて、優越感から僕に嘘をついているのかもしれない。あるいは自分の妻に備わった理解不能の能力に嫉妬し遠くに行かないよう籠の鳥の翼に不要な傷をつける無能な夫として僕のことを非難し、音楽を理解しない才能のない人間として哀れんでいるのかもしれない。

 羽生が用意したトラックから降ろしたピアノをバーのある通りまでクレーンで吊り上げていくのを待っている。待っているしかやることのない時間。急いでいるはずなのに目の前に自分のできることがなく、宙に浮かんだ高級ピアノを眺めていると不思議と心も安らいでもくる。それで歯と腰と目の奥がずきずき痛んでいたことを思い出す。

「村西じゃなくて、西村な」

 18時半。まともな宣伝もしていないこのリサイタルがほぼ全員立ち見で満員、全部で300人も詰めかけてるなんていうことは今回が初めてだ。宣伝だって僕が知らないだけでマユや羽生が手回しをしていた可能性は高い。この場にやってきておそらく一番孤独な思いをしているだろうみきちゃんの姿を発見し、驚き、高揚感と、眠気と、それらを楽屋裏で本番を待つ恐ろしく勘のはたらく妻に悟られまいとする用心とを抱えて人混みをわけ彼女のところに飛んでいく。

「西村くん、すごい人ね」

「ごめんね、こんなところに呼び出して」

「こちらこそ。でも、いつもこんなに人が多いの?」

「まさか、想定外だよ。こんなんじゃまともに話もできない。また後日、食事に行こう。今日は楽しんでいって」

 そう言って今度は入り口に向かう。コツコツと鳴る特徴的なピンヒールの音とともにみどりさんのウェーブのかかった長い黒髪が見えた。義父が到着したようだ。視線を誘導するためにあらかじめそうデザインされたかのようなM字の生え際に向かって僕の視線は誠一の顔に吸い込まれる。お前は濃子のことを知っているな。濃子になにをした。今すぐにでも問いただしたかったが、義父はなんとなく目で僕にこちらに来るなというように僕の飛ばした意識を跳ね返そうとした。彼の後ろに真っ白なスーツを着た長身の金髪男、肌の具合からするとほとんど老人らしいのがいて、その横に鼻のつぶれた長方形の顔をして不釣り合いなオレンジ色のネクタイをした中年男、さらにその前に短い総白髪で薄紫のセーターを着た小柄だが胸板の分厚い険しい皺のきざまれた男がいた。

「待って、西村くん」

みきちゃんが気がつくと僕のスーツの裾を握っていた。リサイタルのある日、たいてい僕はネクタイを締めずにブルーかストライプのシャツを着てその上に冠婚葬祭用のオーダースーツを着ている。

「どうしたんだ」

「あの人、うちの副署長」

「どっち、オレンジネクタイかセーターか」

「なんて?」

「見た目だよ」

「……えっと、多分ネクタイのほう」

 入り口でもぎりを抜けたところにはまだ、いかにも邪魔になりそうな位置に義父たちの一団が立ち止まっている。いまいましい。彼がお金か妖術をつかって狐かなにかこの世のものではないものを召喚するように背後から女が二人あらわれる。いや、しかしその二人は義父と結局まったく関係のない客で、不思議なことにそれは数日前に僕が近所の駅で見かけた象と豹のような女だった。暗闇で見るといかにも好色そうな二人の女。眠気のせいで時差ぼけみたいに昼と夜の区別がつかなくなった僕は今にも欲情しそう。その真ん中から化粧はばっちり、ベビーオイルでベトベトになったみたいに湿潤な肌、矢印を下にしたかたちの鼻をした女があらわれ、真っ白なブラウスにシャネルのハンドバッグを提げ、髪留めにも赤と緑グッチのロゴが入った高いヒールを鳴らし、肌と同じ色の髪の毛を揺らしながらぶりっこして跳ね回り、照明ブースで確認作業を行っている羽生に花束を渡しにいく。本日の混雑の原因は羽生くんであり、彼は自分のファンを嫌がらせのつもりで見せびらかしにきたのかもしれない。あるいは僕の妻をデビューさせるためにレコード会社の重役でも連れてきたか。CDには記憶に残らないさわやかなスマイルの顔写真。先ほど聞いた話だと今日はパガニーニのカプリース24番をやるらしく、音楽に疎い僕はパガニーニなんてそのカプリース24番しか知らないが、それはリスト弾きのマユに対するいかにもなお膳立てだっていうことくらいはわかる。妻はどういうつもりでこいつとつるみはじめたのだろう。客席の人口密度は90パーセントを超えていよいよ呼吸が困難になってきた。酸素濃度の薄まった大気を強引に振動させて聞き覚えのあるダミ声が聞こえてくる。

「先生!」

 声のするほうには何年かぶりに見る顔。

「有下さん」

「久しぶりだな」

「東京じゃなかったんですか」

「来ちゃったよ。君たちのリサイタルに駆けつけないわけにいかないだろ」

 リサイタルは3ヶ月に1回あるのだからいつでも来られる。誰かがこの男をわざわざここに呼び出したのだ。マユか。羽生か。誠一か。僕がそのことを訊こうとしたとき、ピアノが鳴った。義父の会社のCMソングだ。

「帰ってこないで〜 ポークカレーができるまで」

 マユが前の旦那が作曲したその毒にも薬にもならない歌の伴奏を弾くと、有下の両脇でいつの間にか当然のように立っているマキとサキが歌を歌う。

「君らこの歌、知ってるの?」

「なつかしい」

「びっくりしました」

「私たち、出てたんです。この歌の、カレーのCMに」

 へぇ。初耳だな。それより今の音はなんだ。軽く触っただけでそんな音が出るのか。嫌な予感がした。そうして羽生のお上手なヴァイオリン演奏がはじまり、女子大生どもが熱狂する。

 マユが弾きはじめたとき、まずそれがピアノの音だと認識できなかった。すぐ近くで事故かなにかが起こったのだと思った。または隣の部屋で爆発が起こったか。とにかくそれは身の危険を感じるような騒音だった。気がつくとその音の玉は嵐のように降り注ぎ、リズムを刻み、やっと音楽だとわかる。するとまた次の瞬間軽快に飛び跳ねるようになり、なんだかこの部屋全体がテーマパークのアトラクションのためにつくられた乗り物みたいに坂を転がり落ちるような感覚に見舞われる。本来この楽器はこんなに狭い部屋で人が集まって聞くようなものではまったくないのだろう。部屋全体が鳴っているように錯覚する。しばらくすると耳が潰されてしまったせいで視界に遠近感がなくなり一枚の絵の中に閉じ込められたような息苦しさをおぼえる。

 水平方向の滑らかな手の動きを要求するショパンとはちがって、垂直方向に振り下ろす一音一音力強い動きを要求するリストの曲は妻の身体の機構が最大限生かされる。アイアイの小指のようにただでさえ長い指は振り下ろされるたびに伸びるようにも見える。舞台から溢れそうなほど大きなピアノの横で彼女の不気味な影がどんどん大きくなる。本来なら演目の途中で一瞬訪れることで効果をあらわすはずの驚きと興奮が何分も続く。身体中の感覚が無理やり研ぎ澄まされて、緩急がないのでしばらくすると逆に鈍くなってしまったのではないかと錯覚しはじめる。身体は開きっぱなしの水道管にされた気分だ。客はどんな気持ちでこれを聞いているのか。決して快適な空間ではない。退屈でもない。めまいで倒れそうにはなる。眠ることもない。第2主題がはじまると、マユの気分がだんだんと高揚してきて根っからの意地の悪さが前面に出てくる。極端にテンポが落ちていく。曲の全体像がぎりぎり崩壊しないレベルで進行するので聞いていると頭がおかしくなりそうだ。第1主題をまたあの大きくて暴力的できめの細かな音にもどり、テンポダウンによって広げすぎた主題を素早く回収してまわる。10分長の曲が終わる頃には何キロも泳いだ後みたいに全身がぐっしょり湿って疲れきっていた。