スタバ懺悔
僕はこの記事を京都三条河原町近くのスタバで書いている。
白状するが、僕はスタバが好きだ。それもいたってミーハー的に好きだ。ネット上で嘲笑の的になるタイプの、極めて恥ずかしいスタバユーザーだ。
スタバにいると、頭が良くなった気になる。文化的な人物であるような気になる。読書がはかどる。文章を書く気になる。
コーヒーに全くこだわりは無い。いつも「高っけえなあ」と思いながらなんたらフラペチーノやら、なんたらマキアートやらに500円近く払っている。
ごめんなさい。僕はこの期に及んでまだ気取っている。正しくはキャラメルマキアートとキャラメルフラペチーノだ。商品名を「なんたら」と書くことで、スタバにこだわり無い感を演出しようとしてしまった。
なぜ、キャラメル味のものばかり頼むのか。それは甘いからだ。コーヒーの味など分からない自分にも何とか分かるのが「甘み」だからだ。ここで何かを飲んで「うまい」と思うには、甘いものを頼む以外に方法がないからだ。
石を投げてくれてかまわない。見下してくれ。踏んでくれ。
僕は罪深い。何が罪深いかって、最初にこうして白旗を上げることで、以後の批判を封殺しようとしていることだ。意識しようがしまいが、ダサいものはダサい。
本物の読書好きはこう言うだろう。
「スタバにいたら読書が捗るって、それはあなたの読書が結局、読書のための読書だからでしょ。本当に本が好きなわけじゃない。ファッションでしょ」
また、小説家志望の人や、ブログを書いている人はこう言うだろう。
「本当に書くのが好きな人は放っておいても書くし、書こうとしてる時点でダメ」と。
全ておっしゃる通りだ。読書も文章も所詮、スタバに来ないとモチベーションが上がらない程度の趣味なのだ。いや、自分でモチベーションを上げようとしないと持続しない趣味など、もはや趣味ではない。
見栄である。そんなものは。ただのクソの役にも立たない見栄だ。
さて、ふたつ隣の席を見ると、女子大生がマックのパソコンを開き、なにやら大学の課題をやっている。傍らにはワッフル。向かいの席では、こちらもおそらく大学生が音楽を聴きながら法律の勉強をしている。
さあ何が恐ろしいか、上の文章からにじみ出ているだろう。
僕は、ミーハースタバユーザーという賤民に身を落としながら、自分以外のスタバユーザーを心の底では嘲笑し、見下し、バカにしているのだ。
自分はミーハースタバユーザーが「ダサい」ことを知っている。だから、ほかの奴より一段上に立っていると、心の底では思っているのだ。だから平気でツイッターにスタバユーザーをバカにするようなことを書けるのだ。
よくない。これは非常によくない。
ソクラテスはこれをやりすぎて、周囲に恨まれ、訴えられ、最後は自殺した。
彼は「ソクラテスが一番賢い」という神託に「えー、そんなわけ無いよー。俺バカだよー。もっと賢い人いっぱいいるよー。例えば……」と、賢者の噂のある様々な人に会いに行き、そこで「彼が僕より賢いことを、僕自身が証明するよ」と、議論する。そして結果的にその人の無知を晒し、それをいろんな人に対してさんざんやった上で、「あー、なるほど。俺はバカだけど、自分でバカだって分かってる分、自分のこと賢いと思ってるあいつらよりマシってことみたいね」と納得する。ソクラテスの「無知の知」だ。
そりゃ恨まれる。あたりまえだ。
こういう人間になってはいけない。
だいたい、こんな記事を書く時点でよくない。
さっきから懺悔・反省の体を取り繕おうとしているが、なんのことはない。こんなもん結局は「それを自覚している俺」アピールの文章でしかない。
そして、上の文書も「『それを自覚している俺』アピールを自覚している俺」アピールだ。
そしてそれに言及した上の文も……という風に、書けば書くほどこの罪から逃れられない。無知の知スパイラルだ。とにかく、書くからよくないのだ。こんな文章、結局は「自覚しているから無罪」という、勝手に自分が設定した免罪符を手に入れたいだけの、自己中心的で自己満足なクソ記事である。と、これに言及した時点でまた、「それを自覚している俺」アピールだ。また罪を重ねてしまった。何層罪を重ねるのか。罪のミルフィーユ。罪ルフィーユだ。
と、こんな風にふざけてみせて、後の批判を「冗談ですよ」でかわそうなどと小賢しいマネをしている俺、を自覚しているアピールをまたやってしまった。書けば書くほど罪が増えていく。だめだ。こんなもん。終わる。
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