飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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映画『キャロル』は2016年で最高の1本かもしれない。【ネタばれなし感想】

 『キャロル』 映画前売券(ムビチケEメール送付タイプ)

 

「サヨナラサヨナラサヨナラ」

 

 というフレーズに聞き覚えのある方は、と尋ねると、もう10代はおろか20代前半の人でもあやしい結果が出るかもしれない。これは、日本を代表する映画評論家、淀川長治さんが1998年の亡くなる前日まで解説者として出演し続けた『日曜洋画劇場』で、番組の最後に彼が必ず口にする台詞だった。20代後半にさしかかる世代の人たちまでなら、まだおなじみの人も多いのではないだろうか。

 

 高校を卒業した後、受けた大学に全部落ちた僕は一年間、名古屋の予備校に通っていた。そこで英語を教えていた先生の一人が、授業の前にピエトロ・ジェルミの『刑事』(1959)の話をはじめるようなかなり映画好きの方だった。ある日、授業のはじめにその先生が唐突に「みなさん、淀川長治って知ってますか?『サヨナラサヨナラサヨナラ』って聞いたことあるでしょ。あの人ね。あの人は、有名なゲイですよ。戦後直後の世代っていうのは父親が死んでて家に男性がいないから、母子家庭で育った人がゲイになるっていうのが多かったんですね。あの人、すごいマザコンでね。高校生までお母さんとお風呂に入ってたんですよ」と話しはじめて、嘘か本当か知らないけれど、すごい話だな、と思った。というか、そもそも僕自身、母子家庭で育ったということもあって、無茶苦茶なことを言う先生だな、と思った。

 

 


町山智浩 映画「キャロル Carol」 たまむすび

 

 ラジオを聞いて、この話をとても久しぶりに思い出した。僕の習った英語教師の発言にはいろいろと問題があるけれど、淀川さんの性傾向について「男と男のいる歩道」(1996)という自著の中では割と露骨に表明されている。

 パトリシア・ハイスミスという人がこんなにリリカルな女性作家であるということを僕は今まで知らなくて、ハイスミスと言えば映画化された『太陽がいっぱい』(1955)に代表されるトム・リプリーのシリーズ1みたいにサスペンスのイメージが強かった。

 このラジオに登場するカタツムリの話がめちゃくちゃ面白くて、また別の話題について連想が膨らむ。

 

 

criticodoradek.hatenablog.com

 これは僕が大学でお世話になった方のブログなのだが「ベア・バッキング」; HIVの感染リスクを承知の上で行われる危険な性交渉について言及されている。ラジオに登場するカタツムリの「槍」の話から真っ先にこの記事を思い出した。興味深い点は、精神分析の立場を借りて、愛情表現の中に物理的な破壊性を見出し、行為がナルシスティックなものでしかない可能性を指摘していることだ。ここで、背格好の似たとても他人とは思えない見知らぬ男が突然現れて、主人公に近親者の交換殺人を提案する『見知らぬ乗客』というまた別のハイスミスの小説を思い出す。『太陽がいっぱい』に同性愛の暗示があるなら『見知らぬ乗客』には自己愛の暗示がある。

 私小説としての『キャロル』にリアリズムを見出し、サスペンスとしての『太陽がいっぱい』にフィクションを見出すとすれば、50年代のアメリカで女性が自分の同性愛傾向を表明することが社会的な死を意味していたという前者の攻撃性を、作家が実際の生物としての死という後者の攻撃性へと劇化したとも読みたくなる。

 『キャロル』は優れた映画であるという評価を広く受けながらも、アカデミー賞のノミネートからは外れたことが一部のメディアで物議を醸している。

 

note.mu

 (拙訳)

 

 ハリウッド映画で同性愛が描かれた映画が、アカデミー賞のような場所で評価を受けるようになったのはこの記事に描かれているように『ブロークバックマウンテン』や『キッズオールライト』あたりからだろう。しかし、それ以上に男性の同性愛を示唆する映画の歴史は深い。作品賞を受賞した『アラビアのロレンス』が同性愛を描いているというのは有名だ。黄金期のハリウッドには同性愛者であるということが当時は公然の秘密であったジョージ・キューカーやFWムルナウのような監督の存在もある。『教授と美女』や『コンドル』で男性同士のコミュニティを描き、『港々に女あり』で女を勝ち取ることよりも女を巡って争う(ほとんどじゃれ合う)ことを描いたハリウッドの名匠ハワード・ホークスの世界は常に男だけで完結されることが理想とされていた。まるで古代ギリシャの哲学者界隈だ。そもそも淀川さんの本にあるのは、彼の心をとらえた映画というのがそうした男性偏重の世界観だったとも言える。

 『キャロル』のプロットは典型的なメロドラマと言って良いシンプルなものだ。愛し合う二人の人間がいて、二人にはお互いしか見えておらずそれ以外の全てがお互いの障害になる。愛を成就するためには二人はそれを乗り越えねばなるまい。興醒めだが、二人の恋を外野から眺めてみよう。それがハリウッドのような男性中心コミュニティであればあるほど、この恋愛劇は側から見れば女が手当たり次第破壊行為を行っているようにしか見えない。愛というものがあったとして、当人たちには自己愛として、周囲にとっては身勝手さとして破壊性を発揮するだけのものなのかもしれない。

 一部の男性客にとってブルジョワのレズビアンの色恋沙汰なんて自分たちをないがしろにする不快なもの、もしくはそれ以上に自分とは関係のないどうでもいいことだと断定できるかもしれない。映画の内容をゴシップとして話すことは愉快かもしれないけれど、個人の政治的な立場の話を前にいつも行き詰まる。ある種の個人的な身勝手さを描くしかないということが恋愛劇を一方で普遍的なものにし、一方でひどくくだらなくて、もしかすると有害な自己愛でしかないものにしているのかもしれない。

 やっと本題に入るけれど『キャロル』は本当にいい映画で、とりあえず現時点で、今年一番佳い映画と僕は賞賛したい。

 たとえばこの映画は地下鉄の柵にある格子の幾何学模様からはじまるのだが、そこに短い繰り返しの連なる音楽が重なり、視覚と聴覚のイメージが連動していく。50年代を舞台に本当にその50年代に作られたかのようにできているこの映画には、当時では描けなかった同性愛の恋愛を描くという批評性を持っている。冒頭のカーター・バーウェルの音楽にある微細な変化は退屈な同じ繰り返しの模様から、格子の隙間に覗く歴史の裏の隠れた意味をほつれさせるような効果を発揮し、少し背徳的な気分を湿潤に立ち込めさせる。映画はスキャンダルが発覚してから別れた二人の再会シーンからはじまり、主人公テレーズとキャロルの会食中にテレーズの知り合いの男が現れて、キャロルが帰ってしまう。車の中で物思いにふけるテレーズの顔が映され、表情自体は曖昧だが、それが雨に濡れて路上のネオンが乱反射するガラスごしに映されるのでたまらなく感情的に思える。しかも街はクリスマスで空気は冷えて澄み渡り、赤と緑の原色照明が所狭しと輝き、原色のうるうるとした照明に彩られる。物語はこのテレーズの顔から回想して二人の出会いを描くことになる。

 映画の半分以上と言っていいシーンがこんな感じに、一つの感情では言い表しがたい「顔」のクローズアップで埋まる。怯えた人間は自分が本当に怖がっている相手の前では怯えていると悟られないようにするものだ。自然とその人の顔は無表情を装って引きつり、何を考えているのかわからない顔になる。それはまたプロの俳優の顔というのは、拡大してじっと見る価値があるものだなと思う瞬間でもある。拡大された顔の中にあるのは行動に移される前の意思の澱みだ。顔が複雑で見応えのあるものになるのは、迷いというかたちでいくつもの感情がそこに織り込まれるからだ。

 脳の中には「顔」を判別するための専用器官があるというくらいだから、人間の知覚はどうしても「顔」に惹きつけられるようにできている。クローズアップという映画にしかできない演出をふんだんに利用して、観客の心に読み取りきれないものの澱みを蓄積しながら、結局最後までアンニュイな女の顔を繰り返して終わるこの作品には映画にしかできないマジックがみなぎっていると思えてならない。本当はそのマジックの部分を褒めるだけなら、男とか女とか個々の政治的な立場とかを乗り超えて様々な人に褒められてしかるべきと主張したいのだけれど。

 あるいはその無表情は、その一見同じものにしか見えないありふれたフレーズの繰り返しは、必ずしも「アイシテル」のサインではないかもしれないけれど、実はわかるひとにだけわかる暗号であるのかもしれない。

1個人的に特に思い出深い映画化作がヴェンダースの『アメリカの友人』(1977)リアルタイムで観ていた『リプリー』(1999)。ヒッチコックが映画化した『見知らぬ乗客』(1960)も有名。最近だと去年日本で公開された『ギリシャに消えた嘘』(2014)もハイスミスの作。

 

 

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