第五回よまいでか『肉体の悪魔』
早熟の天才をあげたら枚挙にいとまがない。
文学・小説の分野にしぼったとしても、ランボー、久坂葉子、知里幸恵、石川啄木、果ては乙一にいたるまでよりどりみどりだ。
三島由紀夫や太宰治が子供のころに書いた小説を読んでみても、今のぼくでも書けないくらいの文章力があって、なんだか悲しくすらなってくる。
今回取り上げるのは、そんな早熟の天才のひとりに数えられる、レイモン・ラディゲの『肉体の悪魔』です。
まずはこのラディゲについて少しだけ来歴を書いてみようと思います。
フランスはパリ近郊に生まれたラディゲは14歳から詩を書き始め、雑誌に投稿、大詩人コクトーらと親交を結びます。この『肉体の悪魔』は16歳から18歳にかけて執筆され、20歳で夭逝します。コクトーはあまりのショックに阿片漬けになったとのこと。
ぼくが15、6のころといえばひたすらゲームをやったり漫画を読んだりしていて、とてもじゃないけれど文学なんてほとんど興味がなかったし、ここで描かれるような情熱的なロマンスなんて微塵もありませんでした。
そう、この小説のすごいところ、ラディゲのすごいところはその題材が恋愛であるところなのです。
何を小癪な、とちょっだけ思ったのは秘密です。
登場人物は語り手である「僕」と、その恋人マルトです。あらすじはwikiを引用すればこんな感じ。
1917年、第一次世界大戦の最中、「僕」は年上の女性マルトと恋に落ちた。
マルトには出征中のジャックという婚約者がいて、間もなく二人は結婚したが、その時にはマルトのジャックに対する愛は冷めていた。
夫が前線で戦っている間、「僕」とマルトは毎晩のように愛し合った。
そんなある日、マルトが「僕」に打ち明けた。妊娠したことを……。
このアウトラインだけみると、おじさんとかおばさんがすきな普通のエロ小説に見えるかもしれませんが、この「僕」とマルトの場合はその年齢に特徴があります。
「あたしは、あなたの一生を不幸にしたくはないんです。あたし、泣いてるの。だってあたし、あなたにはお婆さんすぎるんですもの」
この台詞を「僕」に対していったマルトの年齢は19歳。
19歳で「お婆さんすぎる」というわけです。ぼくは25歳です。もう棺桶に全身を突っ込んでいるというわけです。
早熟ということは、その分早く大人になり、そして老成するということであって、若くして倦怠を知ってしまうということでもあります。
恋人にこんなことを言わせる「僕」はどういう人物なのでしょう。
先生は皮肉にも僕をドン・ジュアンと呼んだ。僕だけが知っていて、級友たちは知らない作品の名を引用してくれたことが、僕には特にうれしくてたまらなかった。
ドン・ジュアンとはドン・ファンのことであり、プレイボーイの代名詞。モリエールが演劇を作っていたり、モーツァルトがオペラにしていたりする人物のことです。
日本だったら、「よう、光源氏!」というようなものでしょうか。
このとき「僕」は12歳。12歳にしてドン・ジュアン呼ばわりです。こんなことを小学生に対していう教師もどうかと思いますが、とにかく「僕」は相当若くして文学に親しみ、同時に女性に対しても積極的に情熱を注いでいた、というわけです。
ぼくが12歳のときは、たぶんどうやったら子供ができるか、どころか男女の違いもよくわかっていなかったくらいだと思います。すごい。
少し成長した「僕」は、ボードレールを愛するマルトと知り合いになります。ここで出てくるのがボードレールというのも、いかにもという感じです。このマルトには第一次世界大戦に出征している恋人ジャックがいますが、彼女は「僕」の若さの虜になってゆきます。
このジャックは『惡の華』を読むことをマルトに禁止していました。
『惡の華』とはボードレールの詩集。押見修造がこの世界観から漫画を書いてアニメにもなったので、知っている人は多いかもしれません。
中身はといえば、例えばこんな感じ。
――ああ、悲し!「時」が命を齧るのだ、
姿の見えないこの「敵」は、人の心を蝕んで、
僕らが失う血を啜りいい気になって肥え太る!
おお。「美女」よ?汚れて清いまなざしは
綯いまぜて徳と不徳を撒き散らし、
そなたは酒の酔いと似る。
堀口大學・訳
この辺り、ジャックとマルト・「僕」の間には、隔たりがあります。マルトと「僕」は耽美主義・悪魔主義を信望する側の人間。若さと美貌を余すことなく活用して、そうして太く短く、頽廃していくことを将来づけられる運命だったのかもしれません。
さて、マルトに恋した「僕」はといえば、
マルトに恋を抱いていた僕は、ルネや、両親や妹たちのことは愛さなくなっていた
恋愛は僕の心の中で、マルト以外のすべてを麻痺させてしまった。
僕は、自分より前に彼女の肉体を目ざめさせた男を呪った
といった具合に、燃え上がっていきます。金爆の「元カレ殺す」だとか清竜人の「痛いよ」じゃないけれど、こうした独占欲は共感できる部分があるので、なんだか胸が詰まってしまいました。
マルトは妊娠し、そうして物語は破滅へと向かっていきます。
人間が倦怠や苦悩で死ねないのが残念だった
そう「僕」は独白しますが、彼はわずか16、7年生きただけで人生の倦怠を知ってしまうわけです。
何かに熱中していたときほど、それが終わってしまった後の虚脱感は激しいもので、しかも永遠に続くかと思われる時間というものは得てして唐突に終わります。
一度でも恋愛をしたことのある人間なら、この辺りのうつろな感じには共感を抱くのではないかと思います。
物語もさることながら、この『肉体の悪魔』には若書きゆえだろう、アフォリズムじみた、一行詩のような文章がそこかしこに登場します。
恋愛も詩と同じで、恋する者は、どんなに平凡な人間でも、自分たちこそ新機軸を出しているように思い込むものだ
こうした「強い」言葉たちが、単なるエロ小説から芸術の域まで小説を持ち上げていっているのではないかと思います。
僕とマルトの恋愛模様には、三島由紀夫など日本の作家も影響を受けており、川端康成は『みずうみ』の中で、この小説を引用しています。
そうして、すべての出来事の裏には「第一次世界大戦」があるというのが、この恋愛に背徳的なイケナイ味を与えていることを最後に書いておきたいと思います。
なんだか、ただあらすじをなぞるだけになってしまいましたが、失われてしまった青春の輝きを幻視したい人は読んでみてはどうでしょう。
他の人の50年を20年に凝縮した人間は、その故に早くして恋愛の甘美と人生の倦怠を知ってしまい、ただ生きているだけの苦しみを味わうことになる。
たとえ20年でなくとも、今おまけの人生を歩んでいると自認している人たちには何かしらのショックを与えてくれる一冊ではないかと思います。
――生きて来たのが悲しくて、生きているのが悲しくて!
彼女が泣いているのだと、気がつかないか呆気者!
前回↓
リクエストどんどん募集中です!