飄々舎

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『スターウォーズ/フォースの覚醒』新たな悪役、3人の主人公、血縁関係への偏執…【ネタばれ感想】

 

アート・オブ・スター・ウォーズ/フォースの覚醒

アート・オブ・スター・ウォーズ/フォースの覚醒

 

 

  

率直に。地味だなと感じた。

 

と、いうのもそれは私のスターウォーズ鑑賞歴に由来する感想だ。

 

前の記事に書いた通り、私がリアルタイムで鑑賞してきたのは新三部作

(ここではエピソード7以降の今回新しくはじまったシリーズと

区別するため「アナキン・シリーズ」と表記する)である。

 

 

「新」とはいえ、劇中の時代はルーク・スカイウォーカーを主人公とした旧三部作よりも前。

彼の父であるアナキン・スカイウォーカーの少年期から彼の成長、

ダークサイドへの転落、ダース・ベイダーへと変貌するまでを描くシリーズである。

 

アナキンシリーズの派手さ

 

辺境の惑星タトゥイーンに暮らしていた貧しい少年アナキンは、

銀河系を統治する共和国からやってきた治安組織の特殊部隊「ジェダイの騎士」にリクルートされ、有能な師匠のもとで修行を積むこととなる。

 

「フォース」という超能力を生まれつき持つ、身元も種族もばらばらのメンバーで構成された能力主義集団「ジェダイ」の中でも、飛び抜けた才能を発揮するアナキンは、正義感に溢れるが理想主義的で頑固な青年に成長する。

そして母の死をきっかけに、より強大な力を求めてダークサイドへと転落していく。

 

エピソード2のラストでアナキンとパドメが結婚式をあげるシーンがある。

本来主従関係にある姫と騎士との禁断の恋、まるでランスロットとグィネヴィア妃(『アーサー王の死』)のそれだ。騎士道小説の様相である。

 

演出もド派手だ。

 

エピソード1のポッド・レースはウィリアム・ワイラー版の『ベン・ハー』(1960)に登場するチャリオット・レースへのオマージュ・

エピソード2にはクローン兵隊の群衆戦闘シーン

エピソード3にはスピルバーグが演出に参加した溶岩の上でのオビ=ワンとアナキンの決闘がある。

 

私はスターウォーズをそういう豪華な大作映画だと思っていた。

 

それに比べて旧三部作からは、そういったダイナミズムを感じることはできない。

当初、これは単に映像技術の問題で旧式のSF映画がちゃっちく見えるだけなのだと思っていた。その所為で旧三部作ファンにアナキン・シリーズが不人気だという実際の理由もわからなかった。

 

『フォースの覚醒』はその不明瞭さを解明する。

 

スターウォーズの本質

 

『フォースの覚醒』において旧三部作から踏襲された「スターウォーズの本質」なるものは、仲間集めと若者の成長の物語である。まるで少年漫画の新連載だ。

 

最新作と旧三部作は、とも共和国ではなく帝国の支配する銀河系から話がはじまる。主人公は辺境に住むなにも持たない若者で、自分の才能を偶然的に自覚して冒険に巻き込まれていく。主人公を助ける仲間も偶然的に集まってきた有象無象の輩だ。おそらく『フォースの覚醒』以降のシリーズも旧作同様若者が優れた師匠のもとで成長し、強大な権力を打ち破るに至るのだろう。

 

この旧作のプロットは、ケネディ暗殺、ベトナム戦争の失態、ウォーターゲート事件とアランJパラクの映画に代表されるような陰謀説と巨大権力への不信が渦巻く70年代のアメリカ社会で、さぞ痛快に受け入れられたのだろうと思う。

 

JJエイブラムス 旧作からの踏襲

『フォースの覚醒』は旧三部作の特性をかなり自覚的に踏襲している。

 

旧シリーズの背景にはルーカス本人と自営業者の父親との対立、ハリウッドでの成功と父との和解というトピックがある。

 

ルーカスが半ば無意識的に生み出した原作を、

本作の監督であるJJエイブラムスは意識的に「スターウォーズ」らしさとして再現した。

 

条件反射的な短いカットを積み重ね、リズミカルに対立構造を明確化していくJJの軽妙かつセリフを多様しない演出、それがレイ役ジュディス・リドリーの溌剌とした演技とよく噛み合う。

田舎の惑星で廃品を「ブリコラージュ」して暮らしている野良エンジニアのレイは女性。

孤児から「帝国」の無個性な殺人兵士集団へと徴兵されつつも脱走して彼女を助けた、田舎の高校球児のような顔立ちのフィンは黒人。

フィンを助ける革命軍の兵士、ポー・ダメロンもラテン・アメリカ系のオスカー・アイザックが演じている。

 

パーティのバラエティは旧三部作以上に豊かだ。

 

ここに毛むくじゃらのウーキー、チューバッカとハン・ソロが加わる。

ハン・ソロも密輸業者としてアジア系商人と違法な取引の交渉に終始するようなアウトローで、ハリソン・フォードは前作以上に大変チャーミングに演じている。

 

こうして列挙していくと、新三部作に比べていかに世界観が地味かわかるだろう。

アクションでさえ少々遠慮しているように見える。

 

“弱い悪役”をどう再設定するか

 

しかし、一番の相違点は悪役だ。

 

今回の悪役、カイロ・レンはハン・ソロとレイアの息子で、本名をベンと言う。

 

「スターウォーズ」シリーズの二次創作小説にはベン・スカイウォーカーなる人物がルークの息子として登場する。『フォースの覚醒』は小説の設定をあまり受け継いでいないようだが、「ベン」という名前がルークの(そしてアナキンの)師匠オビ=ワンの隠棲名からとられていることは明らかだ。

 

このカイロ・レンが弱い。

 

十字形の光線を発する真っ赤なライトセーバーを振りかざし、レイたちの前の立ちはだかるのだがいつも思春期の子どものように自問自答している。

彼は母方の祖父にあたる圧倒的な悪、ダース・ベイダーに憧れ、力を熱望するあまり、自意識に揺れうじうじとしている。

 

これまでのシリーズとの一番の違いはこの悪役の弱さだ。

レイたちの前に立ちはだかる悪役を、どのように再設定するかが新シリーズの大きな課題になるだろう。

ひとつヒントとなるのは本編中で和解を求めてきた父、ソロをカイロがライトセーバーで串刺しにし、谷底に突き落とすシーン。

 

これは旧シリーズ内にあったベイダーが息子、ルークを突き落とすシーンと父子を逆転した状態で相似をなしている。

 

フォース(力)を求めるカイロは、ジェダイではないソロを軽蔑していると見ることもできる。しかし、70を過ぎてもなお定職につかずふらふらしている「アウトロー」の父への軽蔑とも見て取れる。

 

アウトローを軽蔑し権力を志向するカイロが「新しいアウトロー」のパーティであるレイたちの前に再び立ちはだかるとき、どれだけ新しい悪役像を描けるかが今後の見どころとなるだろう。

 

また、『フォースの覚醒』はカイロ・レン、フィン、そしてレイの3人から主人公を選んで物語を進めるRPGのように、それぞれの成長譚を並行して描こうとしているかのように見ることもできる。観客は誰の目線で見てもいいですよ、と目配せするように。

 

圧倒的な個性ではなく、平凡で等身大の多様な登場人物というのが今作の特徴だ。

こうした作品がより多くの観客を集めて劇場に共存させる「お祭り」を演出する火種かもしれない。

 

物語の最後でレイがルークと出会うが、ルークは彼女に声をかけない。

 

フォースの能力が遺伝性のものであることは強調されている。

中世の騎士道小説は血縁関係への偏執を主題の根底に抱えていた。

しかし「スターウォーズの本質」はアナキン・シリーズのその偏執を否定する。

作品もルーカスの手から離れ、彼の個人的な葛藤を反映する必要もない。

 

もし、レイがルークとはなんの血縁もない「天然のジェダイ」ならその意図を貫徹すると思うのだが。

 

スター・ウォーズ/フォースの覚醒 オリジナル・サウンドトラック(初回スリーブ仕様)

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