飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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ゆるやかな嫌煙

人の感情が揺れ動くことを「感動」と呼ぶなら、「嫌煙」という言葉はなんと喫煙者の感動を呼ぶことか。

以前、気のいい喫煙者の友人に冗談混じりでタバコの是非についての議論をふっかけたら、妙に座った目でキレ気味で反論してきたので、謝って彼にその話をするのは金輪際やめた。

 

僕はタバコについて好きか嫌いかと問われれば「緩やかに嫌い」である。自分は吸わないし、煙も好きではないけど、我慢出来ないほどでもないので友人が吸う分には全くかまわない。非喫煙者の多くがこういう微妙な感情を持っているのではないかと思う。

よく「僕はタバコ気にならないから」と言う人がいる。僕もよく言うが、ウソだ。横で草が燃えて辺りが煙まみれになっていて、気にならないわけがない。「気にならない」という言葉は吸っても問題ないことを示す意思表示でしかなく、その真意は「決して好きではないけれどあなたに対する好意と天秤にかけるとわざわざ咎めるほどではない」という飽くまで相対的なものである。

これは口臭、体臭や美醜に少し近いかも知れない。

口臭や体臭が臭い人や、度を超えて不細工な人と一緒にいて、気にならないことはないが、わざわざ言って咎めたりはしない。それに近い感覚である。

 

しかし、口臭、体臭や美醜とタバコの異なる点は、タバコが吸うor吸わないという明確な二元的性格を持っているということと、喫煙者のパーソナリティに完全に融合してはいないということである。

例えば、ブスは口に出さねばブスではない。口臭や体臭も同じで、普通と酷いの境界が曖昧だ。しかし、タバコはそうではない。吸ってる人は誰がどう見ても吸ってるし、吸っていない人は誰がどう見ても吸っていない。

また、口臭や体臭は完全にその人のパーソナリティと融合している。もっと極端な例を挙げれば人種などもそうだ。しかし、タバコは止めようとすれば止められる、ということになっている。実際はもう自分の力では止められない状態にあったとしても、いちおう建前上は好きで吸っていることになっている。

 

さて、本題に入ろう。

先ほど述べたタバコを取り巻く現状は、僕のようにタバコが緩やかに嫌いな人間に対して、ある種の抑圧を強いている。その抑圧とは「喫煙者を前にすると喫煙を全肯定しないといけない雰囲気になってしまう」というものだ。

例えば、僕には一つの考えを持っている。それは「飲食店でタバコを吸うのはアンフェアだ」というものだ。

 

飲食店での喫煙はたいがい「食前の一服」と「食後の一服」であり、食事中はタバコを吸わない。しかし、喫煙者の食前、食後と周囲の人間の食前、食後が一致することはまず無い。

分煙されていない中華料理屋で、僕が食べている天津飯の味を見事に煙まみれのヤニまみれにしてくれた隣の席の中年男性が、僕が天津飯を食べ終えたタイミングでタバコの火を消し、運ばれてきたラーメンを食べ始めた時などに、僕は殺意を覚えるのである。お前は煙なしで食うんかーーーい!!と。

上のように思っている僕だが、友人が目の前でタバコを吸うことに関しては別に咎めたりはしないし、友人であれば自分の食事中にタバコを吸われてもまあ我慢する。それは、その嫌悪感が友人に対する好意に全く劣るからだ。

そんなことより僕にとって辛いのは、自分が持っている上のような思いや考えを、喫煙者の友人に対しては持っていることすら明かせないということである。

 

タバコというのは「吸う」「吸わない」の二元的な性格を持っている。だからこそ、目の前の友人の喫煙を是とするならば、全ての喫煙を是としなければならなくなる。逆に別の誰かの喫煙を否とすれば、目の前の友人の喫煙も否としなければいけなくなる。

だからタバコの煙に対する価値判断は「気にならない」と「嫌」しかない。「お前の煙は嫌だが許す」は一見中間のように見えて、今は「嫌」のカテゴリに入っている気がする。実際に、僕は我慢できずにさっきの「食中喫煙アンフェア論」を喫煙者の友人に話したことが何度かあるが、当然相手の反応はシュンとするかキレ気味で反論するかという、自分が否定された時のそれが大半であった。

違うんだ。その反応を求めていたんじゃないんだ。と、僕は心の中で思ったが、では逆に相手が喫煙者であるにも関わらず「あー確かに!それはアンフェアだね!」と完全に同意してきたとしても、それはそれで「どの面下げて喫煙者が」と思ったかもしれない。

これは仕方がない。我慢できずに話した時点で自己矛盾だったのだ。

 

しかし、食中喫煙アンフェア論は話せなくとも仕方がないにせよ、せめて自分が決してタバコの煙が好きではないと表明することと、喫煙者の友人の喫煙の容認を両立出来ないものだろうか。

早い話、僕は喫煙者の友人に僕がタバコの煙が不快である旨を伝えてもなお、僕が許した場合はストレスフリーに目の前でタバコをスパスパ吸って欲しいのだ。

ではなぜ、現状そうなっていないか。これは、先ほど挙げたようにタバコがまだ完全にその人のパーソナリティに融合していないからではないか。

ある意味で、僕は喫煙者に穏便な開き直りを求めている。

多くの、特に若い喫煙者は開き直るのが遅いのだ。追いつめられて、追いつめられて、追いつめられて、最後の最後に「うるせー!ちきしょー!どうせ俺は一生タバコ止められないんだよ!」と、キレ気味で開き直る。その時点までは自分の要素の中にまでタバコを取り入れていない。タバコを自明のものとして捉えていない。いつか止められる、あえて吸ってる、という飽くまで自分の判断の結果だと認識している。

だから、「友人が不快に思っているのに吸う判断をする自分」に嫌悪感を抱くし、その裏返しで「煙が不快に思われること」に対してべらぼうにセンシティブになる。

もう少し、早めに喫煙者として開き直って欲しいのだ。キレずに、穏便に。

ある意味、あきらめて欲しいのだ。

例えば、目の前に潔癖症の友人がいるとしよう。彼は、自分以外の人間の大便に対して、非常に嫌悪感を抱いている。

そんな友人がいたとしても、僕たちは「自分が全く大便をしない人間である」などと偽って彼と接するということは、絶対にしないだろう。

これは自分が大便をするということがパーソナリティと融合している状態である。「大便をする」ことを含めて自分であり、「大便をすること」と「自分であること」が不可分であると認識している状態だ。「出るモンは出る。仕方ない」という割り切りだ。僕たちは生まれたときから、自分が非大便排出者であることをあきらめている。

これくらい、自分が喫煙者であるということを割り切って考えていれば、「タバコは煙たいし割と嫌だけど、君が吸うのはかまわないよ」という言葉に対しても、「お、サンキュー」と自然に受け取れるのではないだろうか。「大便は汚いし、想像もしたくないけど、出るんだから仕方がないよね」という言葉に対する感情と同じレベルで。

 

最近はますます、嫌煙の風潮が厳しくなっている。僕はこの風潮が嫌いだ。タバコを吸わないこと、煙が不快であることは共感できるが、それはタバコを美味いと思って吸って、煙が不快でない人間を否定することにはつながらない。

同時に、嫌煙ブームで手負いの獣のようになった、殺気だった喫煙者は、気持ちは分かるが少し落ち着いて欲しい。「ほら、怖くない、怖くない」とナウシカのようになだめたい気分だ。

タバコ嫌いが全員、あなたの敵ではない。子供嫌いが全員、幼児殺害犯でないのと同じように。動物嫌いが全員、森を焼き払ったりしないように。タバコ嫌いの中で、あなたのタバコを取り上げたがっている人間はほんの一部にすぎない。

もう少し、自分が喫煙者であることに余裕をもって欲しい。

 

なんとはなしに、こんなことを思った。

 

 

最後の喫煙者―自選ドタバタ傑作集〈1〉 (新潮文庫)

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