第二回よまいでか『世界の終わり、素晴らしき日々より』
こんにちは、かみしのです。
第二回、『世界の終わり、素晴らしき日々より』です。
- 作者: 一二三スイ,七葉なば
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2012/09/07
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 23回
- この商品を含むブログ (11件) を見る
ぼくはこのリクエストを見た途端、「セカイ系きたか!」と思いました。
別にかみしのの趣味はどうだっていいのですが、ぼくはいわゆる「セカイ系」作品がとても好きで、セカイ系とあれば無条件で肯定してしまうくらいです。
ドトールでアイスコーヒーを飲みながらこの小説を読み終えたわけですが、読み終わった時の感想もやっぱり「セカイ系……!」でした。
そういうわけで今回はちょっと迂遠なやり方で感想を書いていこうかなと思います。
「本の感想だけ読みたいんだよ!!」という方は、『世界の終わり、素晴らしき日々より』という文字列が表れるところまでスクロールしてください(かなり下の方かもしれません)。
そもそもさっきからセカイ系って言ってるけど、なんやねん、という人もたくさんいるとおもうので簡単に言えば、ぼくもなんだかわかりません。
ちょっと待ってください。
ブラウザを閉じる前にちょっとだけ付き合ってください。
まず、一般的なセカイ系の定義を書いてみたいと思います。
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる。
Wikipedeiaより
まとめれば
・ぼくときみがいる。
・小さな関係性と抽象的な大問題の間に具体的な中間項をはさまない。
というのがWikipediaの(つまりごく一般的な)セカイ系という言葉の解釈です。
一つ目はわかりやすいと思うのです。
ようするにボーイ・ミーツ・ガールです。とはいえたいていの物語って、どこかしらにはボーイ・ミーツ・ガール要素がある気はします。
ということは、二つ目がセカイ系作品をセカイ系作品たらしめているのですが、これがかなり厄介。
「小さな関係性」「抽象的な大問題」「具体的な中間項」……。なにがなにやら、という感じです。
特に「具体的な中間項」に関してはなんの具体例も書かれていないのでよくわかりません。
一応、一般的には「具体的な中間項」=「社会」と説明されますが、そうしたら「じゃあ社会とは?」という、思想的な話に入り込んでいきます。
ぼくが「なんだかわかりません」といったのは、セカイ系という言葉自体、あいまいな定義のまま使われるようになって、あいまいなままブームが去っていったからです。
実際、セカイ系に関するいくつかの論文などを読んでみると、論者によってあげる作品や定義に微妙なずれがあることが多々あります。
定義があいまいなまま、ゼロ年代(2000年代)ブームになって、批評界隈でたくさん使われて、そのまま消えていった言葉。それが「セカイ系」なのです。ぼくは「メンヘラ」「ロキノン」なども同じような言葉(界隈語とぼくは勝手に呼んでいますが)、だと思っています。
というと、じゃあお前の「セカイ系……!」という感想はどこからわいてきたんだ。
という厳しい突っ込みがありそうなので、ぼくのスタンスを書いておきます。
ぼくは、セカイ系は形容詞のようなものだと思っています。
いきなりですが、これ、何色だと思いますか?
「赤」「紅」「臙脂色」「紫色」「赤紫色」などなど、いろいろな答えがあると思います。
それです。
つまり、人によってとらえ方が違って当然の概念であるように、ぼくは思うのです。
なにを「白い」と感じるか。どれくらいを「涼しい」と感じるか。どのくらいで「痛い」と感じるか。
この「感じる」ということに関してはみんなが同じ、というわけには当然いきません。
セカイ系はそういう「感じ」をあらわすような言葉なのだと思います。
そもそもこの言葉が一番初めに使われたのはいつか、といえば、前島賢『セカイ系とは何か』によれば2002年。ウェブサイト管理人の「ぷるにえ」という人物が使った言葉だったらしいです。
前島のまとめによれば当初の「セカイ系」とは、
・ぷるにえが一人で勝手に使っている言葉で、大した意味はない
・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対するわずかな揶揄
・これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった
とのことです。
どこにも「具体的な中間項」といった言葉はありません。
ぼくにとってはこっちの定義(のようなもの)の方がぐっとわかりやすいのです。
そもそもが「一人で勝手に使っている言葉」「エヴァ(新世紀エヴァンゲリオン)っぽい」というあいまいな形で使われていた語なのだから、あいまいなまま使ったらいいと思うわけです。
あいまいでいいとはいいながら、やっぱりある程度は「こんな感じ」っていうのを提示しなきゃいけないと思うので、ぼくが思うセカイ系の特徴をいくつか書いておきます。
・明るいというよりは暗い
・心のなかのぐちゃぐちゃが書かれている
・なんか表現がポエムっぽい
・よくわからないけど世界は終わってるとか言っちゃう(あるいはそういう設定)
・どこかしらにはこういう要素↓がある。
↑『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』より。母性愛です。抱擁です。峻別する父性ではありません。最高感があります。
こんな作品を指してぼくはセカイ系っぽい、と思っています。
一言で表せば「モラトリアム」です。「誰も触れない二人だけの国※1」です。スピッツです。
その国から脱出するのが、大人になること=社会に参加すること。ターナーのいうところの「統合」というわけです。
結局のところ、モラトリアムのうじうじした少年(あるいは少女)が、ぐちゃぐちゃした大人世界(参加すべき社会)から離れて、すなわち統合を拒否してヒロインと二人だけの国を作るような過程や結果をもった作品、をぼくはセカイ系っぽい作品だと認識しています。
というわけで、長々しくセカイ系の話をしてきたわけですが、ここから『世界の終わり、素晴らしき日々より※2』の感想になります。
この小説は、「突如として人類が消えてしまった世界で、二人の少女チィとコウが、古いトラックに乗って旅をする話」です。いきなり他の作品の話をするのもあれなんですが、ぼくはつくみずさんの『少女終末旅行』を思い浮かべました。
あるいは『キノの旅』なども、ぼんやりと思い浮かびました。
キノの旅-the Beautiful World- 文庫 1-18巻セット (電撃文庫)
- 作者: 時雨沢恵一
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/10/10
- メディア: 文庫
- この商品を含むブログを見る
なんで、人が消えてしまったのか。どうして世界が終わってしまったのか。
「コウちゃん」とチィは問いかける。「どうして人が皆いなくなっちゃったのかな」
言葉が詰まった。その一瞬の間に湧き上がった色んな答えを、胸の奥底へ押し戻した。コウは深く息を吸い、
「さぁ」
とだけ返す。
「どうして世界から人が消えたのか、消えた人たちがどこに行っちゃったのか、あなた知ってる?」
「知らない」
といった具合に、理由はぽっかりと抜け落ちています(途中で示唆的な場面はありますが※3)。舞台が日本であること、「高国」(中国?)という隣国との戦争があったこと、などはぼんやりとわかるのですが、はっきりとした表現はありません。
とにもかくにも、終わってしまった世界を二人の少女が旅する。
年齢(12歳)のわりに子供っぽい女の子チィと年齢(18歳にもならないらしい)のわりに大人びた女の子コウの交流が描かれています。
話は少し飛びますが、ドラえもんに「タンマウォッチ」というのがありますよね。あの押すと時間が止まる秘密道具です。ぼくはあの道具や「どくさいスイッチ」の話を見て、「こんな静かな世界に住んでみたい」なんて思ったことがあります。
どうでしょう、時間を止める妄想って一度はしたことありませんか?
チィとコウがいる世界もそういう世界です。
だから、そういう妄想をしたことがある人は、この世界観にすーっと入っていけるかもしれません。
「戦争」という物騒な状況があるにもかかわらず、主題は女の子の二人旅です。
二人で喫茶店(誰もいない)に入ったり、いちご園(誰もいない)にいったり、服屋(誰もいない)でJKのコスプレをしたり、映画館(誰もいない)でデートしたり、とまさに「二人だけの国」を作っていきます。いいですね。ぼくもまじりたいです。
もちろん「戦争」に関してコウの過去に謎が多かったり、チィと○○○○○○(ネタバレ)に関係があったり、人が死んだりと危ういこともあるにはあるんですが、あくまでチィとコウのラブラブがテーマです。たぶん。
でも、(青春時代のように)いつまでもつづけばいいな、という二人だけの空間もだんだんやぶれてきます。
食料を集めるためにたちよったショッピングモールで出会った死にかけの軍人。
その部下の男。
チィが探し求めていた父親との再会。
さまざまな状況から二人は別れなくてはならない状況に直面します。
二人だけの国は崩壊してしまうのでしょうか。
チィとコウの関係と、もう一つこの小説では「思春期の苦悩」も書かれていると思います。
序盤に二人が交わした会話。
「迷子になった時には大声で叫ぶんだよ」
後ろでチィの不機嫌そうな声が聞こえた。
「迷子にならないし大声なんて出さないもん」
コウは背中で聞き流し一歩を踏み出す。
ここからわかると思うのですが、コウには保護者としてチィを守ろう、導こうという気持ちが強くあります。
確かに彼女は銃の扱いにも慣れていて、かなり強い(挿絵も20過ぎにしか見えない)のですが、子供なのです。
終盤のとあるシーンでは、コウは大声をあげて叫びます。
彼女は子供と大人の間で「迷子」になってしまっているのだと思います。
チィとコウの二人で、一人の大人のように、ある意味で完成された世界を保っているのだなあということがよくわかる場面だったと思います。
あいかわらず詳しい感想は書けないのですが、透明な空気感や、女の子同士のいちゃいちゃが好きな人、それから大人になれない人たちはきっと共感するところの多い作品だと思います。
わがままを言うなら、今生きているこの世界で幸せになりたかったな
これは作品の中で何回も出てくる言葉です。
逆に言えば、この世界では幸せになれなかった、という意味でもあるでしょう。
この言葉に対する戦いの過程が、セカイ系なのだと思います。
ぼくたちの生きているこの「世界/セカイ」の中で幸せに生きるとは、というとても抽象的な問いをどこかにもった作品たち。セカイ系の想像力はまだまだ衰えていない、なんて思ってしまう読書経験でした。
最後にちょっと気になったこと。
昔なんかの本で、都市を作る時川を埋め立てた土地は水害に弱い、というのを読んだことを思い出していた。
というのが本文中にありまして、『進撃の巨人』でも『ハーモニー』でも『island(ダブルアーツ一巻所収)』でも『少女終末旅行』でも、古い時代のデータは「本」という媒体で書かれているなあ、というのが思い出されて、本というのは古いメディアの象徴になろうとしているのかな、なんてことを考えたりしました。
※1 見崎鉄『Jポップの日本語』という本の中で、スピッツの「ロビンソン」についての論考が書かれています。セカイ系を論じる中でよく出てくるのが「大きな物語の消失」。そして、1995年という時代。オウム真理教の地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災という二つの象徴的な出来事が起こっています。スピッツの「ロビンソン」がリリースされたのはまさに、1995年の4月。スピッツをはじめとする「ロキノン」系バンドとセカイ系の間には密接なつながりがあると思っているのですが、この符合はあまりにできすぎているかな、とも思います。
※2 この作品タイトルを見て、浅野いにおの『素晴らしい世界』を思い出しました。浅野いにおもセカイ系の漫画家だと思っています。滝本竜彦の、例えば『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』などと一緒で、『ほしのこえ』とは違った形でセカイ系の構造をはっきりと提示した作家だと思っています(好きです)。
※3 反転(ネタバレ)いわゆる大人の陰謀が契機になったことが書かれています。笠井潔が「セカイ系と例外状態」で書いたように、セカイ系の特徴に、大人の陰謀による世界の危機、というのがあります。さらにはこの大人、というのはチィの父親であり、総理大臣でもあります。父親=国家です。そして、この父親は「自殺」します。いわゆる「父殺し」という物語の形があって、近代社会においては父親を模倣するのではなく、「殺す」ことで社会への参加を果たすわけです。コウは自分が「自殺」の原因になったのでは、と心を閉ざしかけますが、それは社会的地位をもった大人(上野)に否定されます。これはある意味で自意識からの解放にはなっているのですが、社会の参加にはつながりません。なぜなら、コウは「父親」を殺していなかったからです。こうしてチィとコウは二人だけの国を続けていくことを選択するわけです。