飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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ゆゆしい音色18:デート 【同人小説】

 M市警察署。県警の捜査本部が川原で発見された若い女の遺体に関する事件を捜査する間、刑事課に寄せられる庶務はほとんど大足とみきの二人でこなすことが多かった。平日の17時に毎日帰宅できるのもこの二人だけだった。

「大足さん、お疲れ様です」

「おお、お疲れ、早いな」

「約束があるんです」

「……そうか。」大足は数時間ぶりに書類から目をあげた。

「奏江、気をつけて帰れよ」

「はい」

 みきは待ち合わせ場所の市立美術館へと向かった。フランス・ルネサンス式の名建築。

 

僕が到着すると、すでに正門前のバス停にみきちゃんは到着していた。カウンターで企画展のチケットを二枚購入し、入場する。

「企画展 ドローイング・アートの最前線」

 目玉の展示は会田誠の描いた三枚一組の絵画で、向かって一番左の絵には校舎の外から窓を覗く二人の女子高生が描かれている。奥に横並びの窓が二つ据えられ、その手前

で二人の女子高生が二つのうち右側の窓を覗いている。足元には二匹のウサギの屍体が転がっている。真ん中の絵は美術室のようで、黒板をバックに、教壇の上に全裸の若い女が寝転がっている。画面の中では手前から奥に向かって地面が斜めになるような不自然な遠近感が付けられていて、モネのグランド・オダリスクを縦向きに見直した構図のようにも見える。局部に関してはキャラクターのフィギュアみたいにつるっとして乳首や性器、陰毛は描き加えられていない。一番右の三枚目は真っ暗な理科室で解剖途中の真っ二つにされて中身の構造が細かく書き込まれた鶏の標本が描かれている。よく見ると奥の扉から別の女生徒が教室の中を覗いている。三枚の絵はどれもガラスケースに入れられ、絵の中の空間がしんと静まりかえるように演出する。みきちゃんが先に口を開く。

「西村くんって、本を出版してたの?」

「一冊だけね」

「その仕事に戻るつもりはないの?」

「ないな。まったく」

「せっかく才能があるのに?」

「そういうのは才能とは言わないよ。でも機会があったらまたやるかもしれないし、機会はもうないかもしれない。僕が決めることじゃないんだ。仕事って自分で選んでするものじゃなくて機会として巡ってくるしかないものだとは思わない?」

「私は、自分で準備して勉強して警官になったから」

「そうか」

「どんな本だったの?」

「人間が幸せになるためには、今の人間の数が多すぎるっていう本だったんだ。僕は学生のときからずっと、人口密度がある程度以上になってしまうと一人一人の生活は精神的にも経済的にも楽じゃなくなるっていうことを調べていたんだ」

「難しい本だね」

「難しくないよ。通りを歩いたり、お店に行ったり、僕は少し外出するだけで人と話したりすれ違ったりするたびに少しずつ疲れてしまうんだ。人間が嫌いなのかもしれないと思うことはあるけれど、それは倒錯している。それでもう少し街が広くて人の数が少なければいいのに、って、そういう本だよ。そうか。ドストエフスキーの『罪と罰』って読んだことある?」

「ごめんなさい。私、本ってそんなにたくさんは読まないの。まったく読まないことはないんだけど、特に小説とかって最後まで読みきれなくて。海外のものは本当に特に」

「気にしないで。文学作品だよ。主人公は貧しいけれど頭のいい青年で、悪どい金貸しの老婆を殺してしまうんだ。殺人は悪いことだけれど、悪人を殺すのは実際にいいことなのか、悪いことなのかっていうテーマが出て来るんだ」

「……難しいことはわからないけれど、人を殺すことはどんな場合にも許されないよ」

「たとえば、無人島で僕と君が二人っきりになったとする。それで食べ物がなくなって僕が生き残るために君を殺して食べようとしたとする。それでも君は僕を殺さないかい?」

「その場合は私の正当防衛として殺してしまうかもしれない。でも私は自分の身を守ろうとするだけ」

「あとで裁判がどう判断するかの話じゃないんだ」

「ちがうの、そういうことが言いたいんじゃなくて。私はそういう状況でも人を殺そうとはしない。私にできるのは自分の身を守ろうとすること。その結果としてあなたは死んでしまうかもしれない。でもそれはとっさの状況でいくらでも結果が変わってしまう。誰かが死んでしまうとしてもそれは殺されるんじゃなくて、状況がその人を殺すの。法律も裁判所もないところで例え話をしても、それはあまり意味がないことなんじゃない」

「でも、君は警官として人を殺すことはあるだろう?」

「それは仕事だから」

「仕事なら誰でも殺す?」誰でも、と言われてみきの脳裏に父親が浮かんだ。

「……私たちは法律の範囲内にあるときは必ず警官として振舞う。その必要があるときは必ずそうする。それで……無人島ではその法律は適応されない。もしもそこで私の身に危険が迫るなら、私はそれを精一杯回避しようとするだけ。人を殺そうとは思わない」

 美術館を出ると、僕らは自宅に移動することになった。事件についての話を当初は彼女の家でするはずだったが、通り沿いに東へと歩いて行きM通りとK通りの交差する大きな交差点で南側に横断歩道を渡り、1ブロック歩くと、カウンターが通り沿いに面した横に長いダイナーがあった。そのダイナーで羽生くんと食事をしている妻を僕は何週間かぶりに見て、立ち止まった。2秒くらい立ち止まってからみきちゃんが僕のほうを振り向いて「どうした?」と尋ねた。妻は僕に一切気がつかない様子だったので「いや、別に」と答えてその場を通り過ぎた。

 あとで聞いた話だが、その何週間ものあいだ、彼女はずっと羽生くんの実家の地下室にベーゼンドルファーと一緒に篭って食事と睡眠以外の時間はずっと受験生みたいにピアノを弾き続けていた。そのとき妻が僕に気がつかなかったのは、彼女が別のものに気をとられていたからだ。彼女は通りの向こうに真っ白なスーツを来たとても背の高い人物を見つけた。羽生くんがこう言った。

「藤本先生、亡くなったよ。今日の朝だって」

「あ、そう」

「『あ、そう』って……。ときどき君にはほんとうに感情がないんじゃないかって思うよ」

 マユは羽生くんが最後まで言い終えるのを待たずに店を出ていって、車に轢かれそうになるのも厭わずに目の前の大通りを走って渡った。彼は、女が出て行ったあとの呼び鈴の寂しい音を聞きながら目の前を駆けていく彼女の後ろ姿を見つめていた。

 

*** *** ***

 

 自宅に帰ると、サフランと黄色の着色料が入ったインスタントのパエリアの素を混ぜたご飯を炊飯器に入れて、炊きあがるまでの間に買い物に出かけ、戻ってくるとあさりとムール貝、エビを炒め、ニンニクとパプリカに炊きあがったご飯を加え、それに缶詰のアヒージョと、生ハムを添えてお酒を飲むかと、みきちゃんに訊いたけれど「冗談でしょ」と言われ、僕も飲まないでほしいと言われた。食事が終わると眠くなってきて、もう待ち合わせてから数えれば3時間以上時間が経過しかけていたけれど、みきちゃんのほうからぽつぽつと話をはじめた。

「私ね、おじいちゃんが警官だったの。小学校の6年生のときに、転校したの覚えてる?本当に最後の方だったからなんでこんなタイミングでって感じだったけど、あれね、お父さんが転勤族だったの。それでお父さんに合わせて何度も引っ越すのは子どもによくないから、お母さんと弟と、お父さんのお父さんにあたるおじいちゃんの家に移ってゆっくり暮らさないかっていう話がもう小学校の3年生くらいからあって、その話が6年生の秋くらいに固まって突然引っ越したんだって。中3まではそれでおじいちゃんの家で暮らして。私、小さい頃にぜんそくの症状があって、それも半分くらいは引っ越して暮らす原因になったんだけど、中学に入ってからも部活とかには入らなくて、弟が小学校から帰るのをいつも家までの途中にある公園で待ち合わせて帰ってた。そうするとおじいちゃんがよく公園まで迎えに来てくれてて、それで秋になると公園で銀杏拾ったりとか、冬になると雪だるまつくったりとか、中学生のときだったけど、そういうのをしてて今思うと時間が止まってたんだと思う。それで、中学2年のときにね、冬だった。すごく雪が降ってて、おじいちゃん腰が悪かったからちょっと嫌な予感もしながら学校から帰ってたら、そう、確かテスト週間だった。弟はいつも通り夕方にならないと帰ってこないから私だけお昼過ぎに帰る予定で公園に着いた。それで公園に着いたらおじいちゃんが倒れてた。最初は転んだんだと思ったけど、起こしたらお腹から血が流れてて、病院に運ばれて治療したんだけど、半身不随になっちゃってさ、それでそのときに初めておじいちゃんが若い時警察官だって知った。犯人は、おじいちゃんが昔捕まえた人で、中学生のときに刃物で同級生を3人も滅多刺しにして殺したっていう人で、逆恨みだったのかな。私もまだ子どもだったから全部は話してもらえなかったけれどその人、少年院を出ておじいちゃんに会いに来てたんだって。あとから本人が言っていたことによると、最初はおじいちゃんにお礼をいうつもりだったらしい。でも、家族とおじいちゃんが幸せそうにしてるの見たら自分でもわからないくらいものすごく腹が立って、気がついたらナイフで刺してたって。気がついたらなのに、なんでナイフなんか持ってたんだろうね。それから、1年半後に私が高校に入っておじいちゃんの家を出てまたお父さんと暮らすようになったすぐあとくらいに肺炎で死んじゃった。」

 ベランダの窓から家の前を通る車のヘッドライトがたまに差し込み、あとはテーブルの上にぶら下がるオレンジ色のLEDライトだけ。話している彼女の顔をぼんやり眺めているとだんだん彼女のことが愛おしくなってきて、その手にそっと触れると穏やかな気持ちのまま全身に力がみなぎるのがわかった。こんな気分になることはしばらくなかったけれど、その瞬間に頭がすっきりして考えるより先に体が自然に動くのがわかった。テーブルに左手をついて半身乗り出し、右手で彼女の頭を撫でて、顔の半分を覆い、顎の下に手を添えた。相手は一瞬、警戒して震えたがある地点を越えると抵抗しなくなった。固まってしまった。僕はより一層動きを遅くしながら猫のようにテーブルの上に上がり込み、空になった大皿や缶詰を蹴散らし、テーブルの上に座って左手を彼女の肩にそえる。彼女の座っている椅子を壁のほうに押しやって彼女に覆いかぶさるように、テーブルと彼女の体との隙間に入り込む。彼女のうなじから鎖骨までリンパ腺を優しく辿って顔をじっと覗き込む。両手の中であたたかい生命がどくどくと鳴っていた。左右に消失していく横長の三角形をした眉、くっきりとした二重まぶた、しっかり筋が通っているのに、先が丸くなっているのできつい印象を与えない鼻、面長だがきちんとふっくらとした頰、小さく上品な唇が「どうして」と言ったが空気だけが漏れて音はしない。僕が触れている間は口が利けなくなったみたいだ。後ろで束ねていたゴムをとると長い前髪が左右にばさっと開ける。そこで僕は自分でもどうしてこんな力が出せるのかわからないくらい強く、彼女の首を絞めた。

「みきちゃん、君が思っている通り妻は人殺しなんだ。今までにきっと途方もない人数を殺してきている。僕はいくらかその手伝いもしてきた。でも生活のためにそんなことをしたわけでも、思想的になにか壮大な計画があってそんなことをしたわけでも、無理やりやらされていたわけでもないんだ。僕は好きでずっとやってきていたんだ。僕は妻の殺した人間の屍をばらばらにする作業をしてきた。それはとても体力や技術の必要な仕事だった。でもこんなに人間が生きていることを肌身で感じられる仕事はなかった。興奮じゃない。心が安らぐんだ。自分とまったく同じもので構成されている生き物をまったくこの世に存在しなかったことにできるレベルまで解体し、分類し、分解する。こんなにやりがいのある仕事を与えてくれたことに僕は妻に感謝している。

 正直、僕は濃子を殺した犯人を妻だと疑っていた。今でもまだその疑いは晴らしていない。でも、もしそうだとしても僕はきっと妻と今までどおり生きていくことを選ぶだろう。濃子が亡くなってから本当に辛い思いをしたけれど、彼女との関係はいつかは終わってしまうものだったんだ。妻との関係、妻がくれた役割には代え難いんだよ。だから、君に妻を渡すわけにはいかない。君のことは昔からとても好きだったけど、おわかれだ。

 

さようなら。」

 気がつくと自分の下にみきちゃんが倒れていて、僕のTシャツは破け、太ももや腕に青あざや引っ掻き傷がついて血だらけ、辺りには中身のなくなった鍋や缶詰、割れたコップなんかが散らかっていて、一番驚いたのは、みきちゃんの座っていた椅子のうち1本の足が折れてつなぎ目が粉々になっていたことだ。最後にみきちゃんからは今まで一度もどの女からも嗅いだことのないようなとてもいい汗の匂いがした。ぐっと苦しそうに見開いた彼女の目を閉じて、食事の皿を洗い、ごみを捨てた。みきちゃんをガレージに連れて行き、持っていた荷物の中から例のカルテと歯を回収して、全部揃っているか本数を数え保管庫にしまった。居間に戻ってから冷たい風に当たりたくなってベランダの窓を開けたが蒸し暑いだけだった。

 冷蔵庫からサングリアを出してきて3杯くらい飲むと、胃腸風を患って吐くときみたいにわんわん泣いた。喉の奥のほうに出したことのないような泣き声が溜まっていてそれをかき出すように泣いた。余計なものを全部身体の外に出すには、力を抜く必要があった。8月の終わりだったけれど、泣き疲れてだんだん寒くなってきた。それで、さっきみきちゃんが倒れていたあたりでブランケットにくるまって眠った。

 

 日付が変わるほんの少し前に妻が3週間ぶりに帰ってくる。彼女はフェンの巨大な屍体を抱えている。