飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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読書について

あかごひねひねです。

僕はもうかれこれ10年以上、もう少しちゃんと読書をすべきではないか、というぼんやりとした焦燥感を感じている。

僕は昔からあまり深い読書をしない。とにかく早く読もうとするし、読み終わった後に考察したり感想を書き残したりもしない。

質より量(といっても大した量ではないが)の読書といえる。

これは、小学生時代からずっと変わらない読み方なのだが、一応自分なりに理由を分析してみたことがある。

その時考えた理由は

「感想書いてる時間に新しい本が読める」「シャワーのように文章を読みたい」

の2つだったように思う。

前者はそのままの意味。

後者はシャワーのように情報を浴びることで、その一部が少しずつ自分の中に沈殿していき、そうやって自己が形成されることを望んでいる、という意味である。

 

そして、この二つの根底にあるのが書物に対する恐怖である。

 

僕は昔から本に影響を受けやすい人間だった。書いてあることはすぐに信じるし、読んだ本の影響がいたるところに出る。

たとえば文章や喋り方や口癖などに。

それに自覚的だったからこそ、僕はいつからか、とにかく数を読まなければ、と思うようになった。読んだ本の影響がモロに出る分、上書きを繰り返すことで、バランスを取ろうとしたのだ。

同時に、本に線を引いたり伏せんを貼ったり感想を書いたりすることを避けるようになった。

そうやって意識的に本をから情報を摂取することで、やはりバランスが崩れることが恐ろしかったのだ。

本はとにかく何も考えずに浴びるように読み、読んだ後はあまりそのことについて考えずに次に行くことにした。そして、内容を忘れても、必ずその本の「何か」は自分に影響を与えていて、それがその本を読んだ価値である、と信じることにした。

イメージとしては、染料を付けては洗い流しを繰り返して、色を生地になじませていくような感覚だ。

 

しかし、常に心中に「これでいいのか?」という思いはくすぶっていた。そして、特に最近、それが強くなっている。

 

それはブログを始めたせいだ。

例えば、せっかく本を読んだから、ブログに感想でも書くか、と思っても、書けない。

「面白かった」だとか、「何かを摂取した感覚」はあるが、「オススメ本」のような記事を書くための言葉がなかなか出てこない。

そもそも、読み終わった時点で既に「面白かった」という感想のみ残り、細かい内容を忘れている場合も多い。

昔はそこまで感じなかったが、やはり少しもったいない気がしている。

 

訓練のためにも、これからはもう少し、本についての記事を書こうかと思う。

 

しかし、そう思って最初に書いた記事が本についての記事ではなく、「本についての記事を書こうと思い立った自分」についての記事の時点で先が思いやられるのだが。

 

それでは、また。

 

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