ブックトーク大喜利最終回【「よまいでか」始動記念読書放談 その4】
この記事は以下の記事の続きです。
かみ:収集つかないから次ラストにしよう
あか:いいですよ
かみ:最後のお題は二人で作ろうよ。「〜の〜が〜な小説」
あか:じゃあまずかみしのさんから
かみ:え〜、「27才の」
あか:「27才の」?えー、「郵便局員が」
かみ:「27才の郵便局員が」?……「朝起きると」
あか:まだ続くんすか(笑)えー……「虫になっていた」?
かみ:いやもうそれ一つしかないから!!(笑)
あか:あはははは、無し無し。えーっとえーっと、……「急遽、今日は仕事が休みになったと気づいた」
かみ:……ような小説!!
あか:(笑)
かみ:「27才の郵便局員が朝起きると急遽今日は仕事が休みになったと気づいた」ような小説。範囲が広いなぁ。まず男か女かの問題があるよね
あか:あ、そうか。僕は完全に女のつもりでした。男もいますね。
かみ:これめっちゃ難しいんだけど
(しばし熟考)
あか:よし
かみ:決まった?
あか:来た
かみ:じゃあ、まずは先どうぞ
あか:米澤穂信の古典部シリーズ『遠回りする雛』で
- 作者: 米澤穂信
- 出版社/メーカー: 角川書店(角川グループパブリッシング)
- 発売日: 2010/07/24
- メディア: 文庫
- 購入: 11人 クリック: 146回
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かみ:ほほう。その意図は?
あか:まず27才の郵便局員。僕は女性で考えました。ここから読みとれるのは、日常的で平凡であること。さらに若すぎず、瑞々しさを持ちながらもそろそろ落ち着き始めている。そして朝起きて初めて「あ、今日休みだ」と気づいた。この宙ぶらりん感。『遠回りする雛』は短編集なんですよね。それも今までの長編の合間合間のショートストーリーを集めたやつなんですよ。それが僕の中では、一日仕事でがっつり詰まるんじゃなくて、ふっと仕事が休みになった、そのふわっとした感覚に重なるところがあって。あと短編集なので大きな話が無いんですよ。古典部シリーズはもともと日常の謎を明らかにするタイプのミステリーなんですけど、学園祭とか自主製作映画とか部誌の作成とか、そういうテーマ性のある場面設定すらない。そういう、本当に平凡な、日常の些細な部分を描いているというところで「郵便局員感」あるなと。「27才の郵便局員感」あるなと。というっわけで、古典部シリーズでもあえて長編ではなく短編集の『遠回りする雛』を選びました
かみ:なるほどね。『九マイルには遠すぎる』をやっているような気分だね(笑)「九マイルには遠すぎる」という一言から推理していくという。僕はね……菅原孝標女の「更級日記」ですよ
あか:おおっ!ちょっと、古典来たよ(笑)
かみ:まあ、同じ様なアプローチで「27才」。これはまあ、いわゆる現実見なきゃいけない年になってくる
あか:ああ、同じだね
かみ:だからまあ、夢ばかり見てはいられない。でも一方で夢を見ていたい若さでもあるわけ。僕も女の子で考えたんだけどいわゆる結婚適齢期とかね。続いて「郵便局員」。郵便局っていったいどういう仕事なの?手紙を配達する仕事だ。じゃあ手紙ってなんだろう。それは書いた人の物語だ。要するに、郵便局員とは物語を伝達するような役割ですよ。
あか:はー、なるほどね
かみ:でも手紙には、出しても届かないかもしれないという不安がある。東浩紀的な
あか:お、郵便論
かみ:そう
あか:誤配!
かみ:そしてそこにはどんな手紙があるか分からない。例えば夢を賭けたような原稿を送ってるかも知れない。ラブレターかも知れない。裁判関係の憎しみのこもった手紙かも知れない。数々の物語を背負い、伝達しているのが郵便局員だ。そんな郵便局員の「休み」。物語と物語の間に挟まれた、「宙ぶらりん」って言葉がさっきあったけど、この感覚が菅原孝標女にぴったりだなって。源氏物語が好きで、好きで好きでたまらなくて京都に行こうと思った女の子。でも、年を重ねると気付いちゃうんだね。光源氏みたいな男はこの世にいないって。物語は所詮物語だ。こんな世界、いっそ物語なんか読まずに、仏教修行だけしときゃよかった、と後悔する。さっきの話でいうと、物語から一度離れるような心境の中書かれている。もちろん27才で書いた小説じゃないんだけど、その宙ぶらりん感ってやっぱりあって。でも郵便局員の性というか、物語を伝えるという仕事はあるわけで、結局更級日記書いた後も彼女は「浜松中納言物語」ってのを書いて
あか:あー、やっぱり書いちゃうんだ
かみ:そう。あきらめきれない文学少女で。で、その浜松中納言物語を下敷きにして小説を作り上げたのが三島由紀夫
あか:そうなんですか?
かみ:三島由紀夫が一番最後に書いた小説が浜松中納言物語をもとにしてて、源氏物語から菅原孝標女、更級日記を通って最後は三島由紀夫まで行って、っていう。この物語が連なっているところが正に「27才の郵便局員が朝起きたら今日は急遽仕事が休みになったことに気付いた」っぽい
あか:いやあ、いいねえ(笑)。古典出てくるかぁ
かみ:「やったった」感(笑)
あか:教養がものを言うなあ。この企画おもしろかったなあ。ちゃんと紹介になるしね。
かみ:次は本棚とか見ながらやったらもっとおもしろいかもね
あか:絶対いい。以外と浮かばないんだよ
かみ:では、次回を楽しみに、ということで
つづく?
ディズニー最新作『ズートピア』が描く不自然な共存
知性によって対等になる肉食と草食
「夜の遠吠え」というマクガフィン
もう少し話が進むと「オオカミ」と「ヒツジ」が出てきます。(ここらへんからネタバレあり)
捜査が進む中で「夜の遠吠え」というワードが出てきます。
真相と決戦
ヒツジの副市長の登場シーンに注目しましょう。
歴史を騙し 生きながらえる街
Variety Kyotoという場所で飄々舎ライブします。
玉木(@tamakisei)です。
京都の小劇場がクローズしていくのが寂しくて、
後先考えず「劇場をやってみよう!」と動き出した場所が、
このたび、お披露目となります。
場所は 京都・三条京阪 徒歩2分
期間は 5月1日(日)〜15日(日)
名前は Variety Kyoto
テレビのバラエティ番組、多様性、バラエティーショー=寄席、というイメージを込めました。
だれもが気軽に娯楽を自給できる、
劇場のふりをした小さなスペースです。
そこで5月7日17時30分〜
「5回に3回はバツグンに面白いかもしれないライブ6」をやります。
急ですが、ぜひご参加くださいませ。
詳細・ご予約はこちら(ページ左下です)
http://varietykyoto.wix.com/mysite#!blank/ziu0d
飄々CDも置いてます。
ほかにもVariety Kyotoに企画や出演で関わってくださるのは
池浦さだ夢
伊藤洋志
イトウモ
嬉野雅道
エディ・B・アッチャマン
岡本昌也
黒川猛
コメディアス(鈴木あいれ・原唯香)
貯蓄アンドザシティ
宝亭お富
谷田半休
月亭太遊
筒井加寿子
Novelman
ひつじのあゆみ
飄々舎(あかごひねひね・玉木青)
ファックジャパン
二口大学
堀江洋一
丸山交通公園
村角太洋
という多彩な方々!
◎内容も
コント、落語、映画、音楽、恋話、テレビ、茶道、大喜利、飲み会、ラグビー、旅行…と
バラエティ豊かです。
イベントや出演者に興味を持たれましたら、ぜひ会場に遊びにきていただければ幸いです。
(※お席が限られていますので、事前のご予約をオススメいたします!)
◎詳細・ご予約はこちらから
http://varietykyoto.wix.com/mysite#!blank/ziu0d
Twitter→ @variety_kyoto
Facebook→ Variety-Kyoto
※1日と15日は出入り自由の飲み会を開催します!お久しぶりの方や場所に興味のある方、どなたでもご参加ください。
※やりたいイベント等がある方もご連絡ください!
取り急ぎ。
第二回よまいでか『世界の終わり、素晴らしき日々より』
こんにちは、かみしのです。
第二回、『世界の終わり、素晴らしき日々より』です。
- 作者: 一二三スイ,七葉なば
- 出版社/メーカー: アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2012/09/07
- メディア: 文庫
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ぼくはこのリクエストを見た途端、「セカイ系きたか!」と思いました。
別にかみしのの趣味はどうだっていいのですが、ぼくはいわゆる「セカイ系」作品がとても好きで、セカイ系とあれば無条件で肯定してしまうくらいです。
ドトールでアイスコーヒーを飲みながらこの小説を読み終えたわけですが、読み終わった時の感想もやっぱり「セカイ系……!」でした。
そういうわけで今回はちょっと迂遠なやり方で感想を書いていこうかなと思います。
「本の感想だけ読みたいんだよ!!」という方は、『世界の終わり、素晴らしき日々より』という文字列が表れるところまでスクロールしてください(かなり下の方かもしれません)。
そもそもさっきからセカイ系って言ってるけど、なんやねん、という人もたくさんいるとおもうので簡単に言えば、ぼくもなんだかわかりません。
ちょっと待ってください。
ブラウザを閉じる前にちょっとだけ付き合ってください。
まず、一般的なセカイ系の定義を書いてみたいと思います。
主人公(ぼく)とヒロイン(きみ)を中心とした小さな関係性(「きみとぼく」)の問題が、具体的な中間項を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」などといった抽象的な大問題に直結する作品群のこと」であり、代表作として新海誠のアニメ『ほしのこえ』、高橋しんのマンガ『最終兵器彼女』、秋山瑞人の小説『イリヤの空、UFOの夏』の3作があげられる。
Wikipedeiaより
まとめれば
・ぼくときみがいる。
・小さな関係性と抽象的な大問題の間に具体的な中間項をはさまない。
というのがWikipediaの(つまりごく一般的な)セカイ系という言葉の解釈です。
一つ目はわかりやすいと思うのです。
ようするにボーイ・ミーツ・ガールです。とはいえたいていの物語って、どこかしらにはボーイ・ミーツ・ガール要素がある気はします。
ということは、二つ目がセカイ系作品をセカイ系作品たらしめているのですが、これがかなり厄介。
「小さな関係性」「抽象的な大問題」「具体的な中間項」……。なにがなにやら、という感じです。
特に「具体的な中間項」に関してはなんの具体例も書かれていないのでよくわかりません。
一応、一般的には「具体的な中間項」=「社会」と説明されますが、そうしたら「じゃあ社会とは?」という、思想的な話に入り込んでいきます。
ぼくが「なんだかわかりません」といったのは、セカイ系という言葉自体、あいまいな定義のまま使われるようになって、あいまいなままブームが去っていったからです。
実際、セカイ系に関するいくつかの論文などを読んでみると、論者によってあげる作品や定義に微妙なずれがあることが多々あります。
定義があいまいなまま、ゼロ年代(2000年代)ブームになって、批評界隈でたくさん使われて、そのまま消えていった言葉。それが「セカイ系」なのです。ぼくは「メンヘラ」「ロキノン」なども同じような言葉(界隈語とぼくは勝手に呼んでいますが)、だと思っています。
というと、じゃあお前の「セカイ系……!」という感想はどこからわいてきたんだ。
という厳しい突っ込みがありそうなので、ぼくのスタンスを書いておきます。
ぼくは、セカイ系は形容詞のようなものだと思っています。
いきなりですが、これ、何色だと思いますか?
「赤」「紅」「臙脂色」「紫色」「赤紫色」などなど、いろいろな答えがあると思います。
それです。
つまり、人によってとらえ方が違って当然の概念であるように、ぼくは思うのです。
なにを「白い」と感じるか。どれくらいを「涼しい」と感じるか。どのくらいで「痛い」と感じるか。
この「感じる」ということに関してはみんなが同じ、というわけには当然いきません。
セカイ系はそういう「感じ」をあらわすような言葉なのだと思います。
そもそもこの言葉が一番初めに使われたのはいつか、といえば、前島賢『セカイ系とは何か』によれば2002年。ウェブサイト管理人の「ぷるにえ」という人物が使った言葉だったらしいです。
前島のまとめによれば当初の「セカイ系」とは、
・ぷるにえが一人で勝手に使っている言葉で、大した意味はない
・エヴァっぽい(=一人語りの激しい)作品に対するわずかな揶揄
・これらの作品は特徴として、たかだか語り手自身の了見を「世界」という誇大な言葉で表したがる傾向があり、そこから「セカイ系」という名称になった
とのことです。
どこにも「具体的な中間項」といった言葉はありません。
ぼくにとってはこっちの定義(のようなもの)の方がぐっとわかりやすいのです。
そもそもが「一人で勝手に使っている言葉」「エヴァ(新世紀エヴァンゲリオン)っぽい」というあいまいな形で使われていた語なのだから、あいまいなまま使ったらいいと思うわけです。
あいまいでいいとはいいながら、やっぱりある程度は「こんな感じ」っていうのを提示しなきゃいけないと思うので、ぼくが思うセカイ系の特徴をいくつか書いておきます。
・明るいというよりは暗い
・心のなかのぐちゃぐちゃが書かれている
・なんか表現がポエムっぽい
・よくわからないけど世界は終わってるとか言っちゃう(あるいはそういう設定)
・どこかしらにはこういう要素↓がある。
↑『死にたくなるしょうもない日々が死にたくなるくらいしょうもなくて死ぬほど死にたくない日々』より。母性愛です。抱擁です。峻別する父性ではありません。最高感があります。
こんな作品を指してぼくはセカイ系っぽい、と思っています。
一言で表せば「モラトリアム」です。「誰も触れない二人だけの国※1」です。スピッツです。
その国から脱出するのが、大人になること=社会に参加すること。ターナーのいうところの「統合」というわけです。
結局のところ、モラトリアムのうじうじした少年(あるいは少女)が、ぐちゃぐちゃした大人世界(参加すべき社会)から離れて、すなわち統合を拒否してヒロインと二人だけの国を作るような過程や結果をもった作品、をぼくはセカイ系っぽい作品だと認識しています。
というわけで、長々しくセカイ系の話をしてきたわけですが、ここから『世界の終わり、素晴らしき日々より※2』の感想になります。
この小説は、「突如として人類が消えてしまった世界で、二人の少女チィとコウが、古いトラックに乗って旅をする話」です。いきなり他の作品の話をするのもあれなんですが、ぼくはつくみずさんの『少女終末旅行』を思い浮かべました。
あるいは『キノの旅』なども、ぼんやりと思い浮かびました。
キノの旅-the Beautiful World- 文庫 1-18巻セット (電撃文庫)
- 作者: 時雨沢恵一
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/アスキー・メディアワークス
- 発売日: 2014/10/10
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なんで、人が消えてしまったのか。どうして世界が終わってしまったのか。
「コウちゃん」とチィは問いかける。「どうして人が皆いなくなっちゃったのかな」
言葉が詰まった。その一瞬の間に湧き上がった色んな答えを、胸の奥底へ押し戻した。コウは深く息を吸い、
「さぁ」
とだけ返す。
「どうして世界から人が消えたのか、消えた人たちがどこに行っちゃったのか、あなた知ってる?」
「知らない」
といった具合に、理由はぽっかりと抜け落ちています(途中で示唆的な場面はありますが※3)。舞台が日本であること、「高国」(中国?)という隣国との戦争があったこと、などはぼんやりとわかるのですが、はっきりとした表現はありません。
とにもかくにも、終わってしまった世界を二人の少女が旅する。
年齢(12歳)のわりに子供っぽい女の子チィと年齢(18歳にもならないらしい)のわりに大人びた女の子コウの交流が描かれています。
話は少し飛びますが、ドラえもんに「タンマウォッチ」というのがありますよね。あの押すと時間が止まる秘密道具です。ぼくはあの道具や「どくさいスイッチ」の話を見て、「こんな静かな世界に住んでみたい」なんて思ったことがあります。
どうでしょう、時間を止める妄想って一度はしたことありませんか?
チィとコウがいる世界もそういう世界です。
だから、そういう妄想をしたことがある人は、この世界観にすーっと入っていけるかもしれません。
「戦争」という物騒な状況があるにもかかわらず、主題は女の子の二人旅です。
二人で喫茶店(誰もいない)に入ったり、いちご園(誰もいない)にいったり、服屋(誰もいない)でJKのコスプレをしたり、映画館(誰もいない)でデートしたり、とまさに「二人だけの国」を作っていきます。いいですね。ぼくもまじりたいです。
もちろん「戦争」に関してコウの過去に謎が多かったり、チィと○○○○○○(ネタバレ)に関係があったり、人が死んだりと危ういこともあるにはあるんですが、あくまでチィとコウのラブラブがテーマです。たぶん。
でも、(青春時代のように)いつまでもつづけばいいな、という二人だけの空間もだんだんやぶれてきます。
食料を集めるためにたちよったショッピングモールで出会った死にかけの軍人。
その部下の男。
チィが探し求めていた父親との再会。
さまざまな状況から二人は別れなくてはならない状況に直面します。
二人だけの国は崩壊してしまうのでしょうか。
チィとコウの関係と、もう一つこの小説では「思春期の苦悩」も書かれていると思います。
序盤に二人が交わした会話。
「迷子になった時には大声で叫ぶんだよ」
後ろでチィの不機嫌そうな声が聞こえた。
「迷子にならないし大声なんて出さないもん」
コウは背中で聞き流し一歩を踏み出す。
ここからわかると思うのですが、コウには保護者としてチィを守ろう、導こうという気持ちが強くあります。
確かに彼女は銃の扱いにも慣れていて、かなり強い(挿絵も20過ぎにしか見えない)のですが、子供なのです。
終盤のとあるシーンでは、コウは大声をあげて叫びます。
彼女は子供と大人の間で「迷子」になってしまっているのだと思います。
チィとコウの二人で、一人の大人のように、ある意味で完成された世界を保っているのだなあということがよくわかる場面だったと思います。
あいかわらず詳しい感想は書けないのですが、透明な空気感や、女の子同士のいちゃいちゃが好きな人、それから大人になれない人たちはきっと共感するところの多い作品だと思います。
わがままを言うなら、今生きているこの世界で幸せになりたかったな
これは作品の中で何回も出てくる言葉です。
逆に言えば、この世界では幸せになれなかった、という意味でもあるでしょう。
この言葉に対する戦いの過程が、セカイ系なのだと思います。
ぼくたちの生きているこの「世界/セカイ」の中で幸せに生きるとは、というとても抽象的な問いをどこかにもった作品たち。セカイ系の想像力はまだまだ衰えていない、なんて思ってしまう読書経験でした。
最後にちょっと気になったこと。
昔なんかの本で、都市を作る時川を埋め立てた土地は水害に弱い、というのを読んだことを思い出していた。
というのが本文中にありまして、『進撃の巨人』でも『ハーモニー』でも『island(ダブルアーツ一巻所収)』でも『少女終末旅行』でも、古い時代のデータは「本」という媒体で書かれているなあ、というのが思い出されて、本というのは古いメディアの象徴になろうとしているのかな、なんてことを考えたりしました。
※1 見崎鉄『Jポップの日本語』という本の中で、スピッツの「ロビンソン」についての論考が書かれています。セカイ系を論じる中でよく出てくるのが「大きな物語の消失」。そして、1995年という時代。オウム真理教の地下鉄サリン事件と阪神・淡路大震災という二つの象徴的な出来事が起こっています。スピッツの「ロビンソン」がリリースされたのはまさに、1995年の4月。スピッツをはじめとする「ロキノン」系バンドとセカイ系の間には密接なつながりがあると思っているのですが、この符合はあまりにできすぎているかな、とも思います。
※2 この作品タイトルを見て、浅野いにおの『素晴らしい世界』を思い出しました。浅野いにおもセカイ系の漫画家だと思っています。滝本竜彦の、例えば『ネガティブハッピー・チェーンソーエッジ』などと一緒で、『ほしのこえ』とは違った形でセカイ系の構造をはっきりと提示した作家だと思っています(好きです)。
※3 反転(ネタバレ)いわゆる大人の陰謀が契機になったことが書かれています。笠井潔が「セカイ系と例外状態」で書いたように、セカイ系の特徴に、大人の陰謀による世界の危機、というのがあります。さらにはこの大人、というのはチィの父親であり、総理大臣でもあります。父親=国家です。そして、この父親は「自殺」します。いわゆる「父殺し」という物語の形があって、近代社会においては父親を模倣するのではなく、「殺す」ことで社会への参加を果たすわけです。コウは自分が「自殺」の原因になったのでは、と心を閉ざしかけますが、それは社会的地位をもった大人(上野)に否定されます。これはある意味で自意識からの解放にはなっているのですが、社会の参加にはつながりません。なぜなら、コウは「父親」を殺していなかったからです。こうしてチィとコウは二人だけの国を続けていくことを選択するわけです。
『幻影城の時代』のこととか
先日のイベント
こんにちは、あかごひねひねです。
先日、第何回かは忘れたが、飄々舎のイベントを行った。
飄々舎のイベントは基本的に僕が好きなことを舞台上でべらべらと話し、それに相方の青木あらため玉木くんがツッコんだり、あきれたりする、という形態で行うことが多い。
先日のイベントでは後半、趣味の話になった。そこで最近ハマっているものから、それにハマるキッカケとなったもの、さらにそのキッカケとなったもの、という風に逆にたどっていくという企画を行った。以前このブログでも「ラーメンズから広がる世界」というタイトルでやっていたことの逆バージョンである。
この企画は結果的に、気が狂ったかのように話し続ける僕と、あきれる玉木、飽きる観客という構図になった。僕は楽しかったから後悔はしていない。
むしろ話したりないくらいだ。だからその企画で話した内容に近いことを、このブログでもう一度書いてみることにする。
この記事はある話題について意図的に脱線しながら、その話題から芋蔓式に話を広げていこうという企画だ。
ブログならば時間制限も字数制限も無いので、思いついた内容を全て盛り込むことが出来る。この記事はきっとイベントで話した内容以上に長大なものになるだろう。でもいい。これは自己満足の文章だとあらかじめ宣言しておく。
イベントで最初に僕が一番最近にハマったものとして紹介したのが、少し前にアマゾンで買った『幻影城の時代 完全版』という本であった。なのでとりあえずその話を書こうと思う。
イベントではこの『幻影城の時代 完全版』について話すだけで、余談脱線含めると結構な長さになった。そこで、内容に入る前に登場する言葉を羅列してみる。これからこんな言葉が登場しますよー。
幻影城/江戸川乱歩/横溝正史/松本清張/本格ミステリ/泡坂妻男/連城三紀彦/社会派ミステリ/新本格/綾辻行人/我孫子武丸/太田克史/メフィスト賞/京極夏彦/森博嗣/舞城王太郎/佐藤友哉/西尾維新/ファウスト/講談社BOX/東浩紀/ゼロアカ道場/星海社/渡辺浩弐
では、内容を書いていくこととする。しばしおつきあいを。
なお、この記事の内容は多くをネットで得た知識と僕の記憶に依っているので、間違っている箇所が多いかもしれない。指摘していただければ直しますので、ファンの人は間違い見つけてもあまり怒らないでもらえると嬉しいです……。
『幻影城』という雑誌
まず、『幻影城の時代 完全版』という書籍は、『幻影城』という雑誌のファンによる同人誌である。このことを知った上で以下の文を読んでほしい。
「本格ミステリ」という言葉がある。これは読者に対して事件の謎を解くために必要な情報を全てオープンにした上で、物語の中で謎を展開するというミステリの比較的古典的なスタイルだ。本の途中で作者による「読者への挑戦」が行われる作品などはこの典型である。ただ、この形式は時としてリアリティを欠いたパズルやクイズのようだという批判をあびてきた。
現代日本のミステリ史をものすごく雑に区分すると、江戸川乱歩・横溝正史の時代の後に、松本清張に始まる社会派ミステリの時代が来る。乱歩、正史の時代はいわゆる本格ミステリが幅をきかせていた時代なのだが、それに対してリアリティがないという批判とともに興ったのが社会派ミステリであった。探偵ではなく一介の会社員などが、社会的な悪事など「リアルな」謎を解くミステリである。
この時代は、本格ミステリにとっては冬の時代であった。そしてこの時代に創刊された貴重な本格ミステリ雑誌が1975年創刊の『幻影城』だ。
元々、過去の名作探偵小説を再掲する雑誌であった幻影城だったが、やがて雑誌発の新人賞を開催するようになり、そこから泡坂妻男や連城三紀彦などの作家が輩出された。
また、この雑誌の読者から、後に「新本格」と呼ばれる本格ミステリムーブメントの中心となる人物も出てくることになる。日本の本格ミステリ冬の時代にその炎を消すことなく次の世代に伝えたという意味でも、この幻影城という雑誌は貴重なのである。
さて、この『幻影城』を作っていた人物は島崎博というのだが、彼は実は台湾人であった。彼は1979年の幻影城の休刊の後、台湾に帰国してしまったため、日本国内では消息が不明な状況になっていた。
時は流れて2006年、その島崎さんが実は台湾で存命であるという事実を知ったサークルが台湾に飛び、インタビューをこころみた。それが伝説的同人誌『幻影城の時代』である。これが書籍版『幻影城の時代 完全版』のベースになる。
『幻影城の時代 完全版』
話は少し戻って、日本ミステリ史である。幻影城から本格ミステリの意志を受け継いだ1980年代後半の「新本格」ムーブメント。そのムーブメントを仕掛けた編集者に、講談社の宇山日出臣がいる。綾辻行人ら多くの新本格作家を輩出したこのムーブメントの仕掛け人はその後、講談社文芸図書第三出版部(通称文三)の部長として再び日本ミステリ史の新たな潮流の発生に関わることとなる。それが「メフィスト賞」である。
メフィスト賞とは、出版社で以前から行われていた、いわゆる「持ち込み」を新人賞の形式にしたものと考えてよい。年中原稿を募集し、送られた原稿は全て下読みなしで編集者が読み、良かったものは受賞させて書籍化する。副賞は確か印税のみだったように記憶している。メフィスト賞の第一回受賞者は『全てがFになる』の森博嗣だが、京極夏彦を第0回メフィスト賞受賞者と呼ぶ場合もある。
ある日、素人からの一本の電話の後に講談社に送られてきた、一般の新人賞では確実にNGの分量の原稿があまりに面白かったため、書籍化されたのが京極夏彦のデビュー作『姑獲鳥の夏』である。そしてこれがきっかけで、こういった従来の新人賞ではすくい取れない才能を発掘する場として誕生したのがメフィスト賞なのだ。
さて、このメフィスト賞は雑誌『メフィスト』を母体としていたのだが、この雑誌内で少し変わった企画を行っていた。「座談会」と呼ばれるその企画は、メフィスト賞の選考委員、すなわち文三所属の編集者たちが投稿作に対して座談会形式でコメントしていくというものだ。賞の選考の様子を文字起こしのような形式で読者に公表するこのスタイルも斬新であった。
「座談会」の際、文三の編集者は全員アルファベットで表されるのだが、その中に「J」という編集者がいた。文三に十番目に入ったためそう呼ばれたその男こそ後に筒井康隆をして「太田が悪い」と言わしめる講談社の名物編集者、太田克史である。
『幻影城の時代 完全版』の話に戻るまでもう少しおつきあい願う。太田克史は2009年講談社創業100周年記念企画として、新たな文芸誌の企画を立案。これが採用されて新雑誌 『ファウスト』が創刊された。この雑誌ではいくつかの新しい取り組みが行われた。まず編集長の太田克史が全ての編集を行う「ひとり編集」体制。編集長のこだわりを紙面により濃く反映させるための工夫である。次に「イラストーリー」手法の採用。イラスト+ストーリー、すなわち小説にイラストを挿入するライトノベルの手法の意識的な取り入れだ。さらに「本物のDTP」。DTPとはデスクトップ・パブリッシングの略で、パソコン上で本の校正を行ってしまうことである。この手法をいち早く取り入れたのが元々デザイン会社に勤めていた京極夏彦であり、彼と交流があった太田克史もファウストで本格的にDTPを活用し始めた。これによって「ファウスト」では各小説のイメージごとにフォントを変えるなどの細かい工夫が行われている。
こうして創刊された雑誌『ファウスト』にはメフィスト賞出身で太田克史にゆかりのある舞城王太郎・佐藤友哉・西尾維新のほか、パソコンゲーム業界でその才能を発揮していた竜騎士07、那須きのこなど、様々な作家が作品を発表した。
ファウストを不定期で刊行しながら太田は、講談社BOXという新レーベルの編集長にも就任する。西尾維新が『化物語』シリーズを書いている、あの、箱に入って妙に割高のラノベ?レーベルである。
- 作者: 西尾維新,VOFAN
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2006/11/01
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この講談社BOX編集長時代には、『ファウスト』でも交流があった批評家の東浩紀とともに、ゼロ年代の新たな批評家を発掘する企画、「東浩紀のゼロアカ道場」を開催している。この選考の様子はニコニコ動画で配信され、そのアーカイブは現在も見ることが出来る。課題も「文学フリマで自作の批評を売れ」など、エンターテイメント性が高く面白い。特に太田・東の二名に加えて芸術家の村上隆、作家の筒井康隆の四人による公開口頭試問はスリリングで一見の価値ありだ。
ちなみに、「文学フリマ」は批評家の大塚英志が「不良債権としての文学」
http://www.bungaku.net/furima/fremafryou.htm
という文章を発表した後、その回答として企画に関わったものであるが、2002年に行われた第1回文学フリマに太田克史は同人誌を販売している。「タンデムローターの方法論」と題されたこの同人誌は太田克史・佐藤友哉・西尾維新・舞城王太郎が表紙が参加しているなかなか豪華な代物だ。
ちなみに、太田克史が『ファウスト』を創刊した動機にも、上述の大塚英志の文章は景況していたらしい。
↓
6.取材◆太田克史さん(編集者) « KENBUNDEN2009-見たい、聞きたい、伝えたい!東大生の、好奇心!
その太田克史が講談社BOX編集長時代に出版したのが、僕が持っている書籍版の『幻影城の時代』である。同人誌版に掲載されていたインタビューのほか、再び今度は講談社の編集者が島崎さんを訪ねて行ったインタビューⅡや、当時幻影城に執筆していた作家による書き下ろし短編、『幻影城』各号の表紙のデザイン、幻影城の読者であった推理作家たちによるコメント集などが収録されている。
ここに至るまでにえらく脱線してしまった。
この書籍について僕が知ったきっかけは、「公開企画会議(仮)」というタイトルでニコニコ動画に上がっている、2011~2012年にかけて太田克史と作家の渡辺浩弐のニコ生のアーカイブである。
渡辺浩弐はかつてファミ通にSFショートショートを連載していた作家で、ファウストにも作品を発表しており、太田克史と親交があった。ちなみに渡辺浩弐はかつてテレビ番組「大竹まことのただいま!PCランド」のゲームを紹介するコーナーに出演していたらしく、シティボーイズも大好きな僕としては、意外なつながりに驚いたものだ。
「公開企画会議(仮)」の時期、太田克史はすでに講談社BOXの編集長を辞しており星海社という講談社の子会社の副社長に就任していた。この状況は現在まで続いている。ちなみにこの星海社という会社も小説の新人賞を開催しているのだが、この形態がなかなか面白い。まず、新人賞の賞金が一定でない。その年の星海社の全売り上げの1%が賞金となる。ちなみにキャリーオーバー有り。また、賞の選考は下読み無しで全て編集者が行う。これは太田克史の古巣『メフィスト』のやりかたである。同様に「座談会」も公開されている。メフィスト賞と異なるのが、「座談会」の公開がネット上であることと、メフィスト賞ではイニシャルだった編集者が全て実名で公開されているという点である。この座談会、新人の原稿を編集者がおもしろおかしくdisるのでネットでよく燃える。僕が星海社を知ったキッカケも、この座談会を叩く2ちゃんねるの過去スレだった。
さて「公開企画会議(仮)」は「文芸の未来を模索する企画会議」と銘打って、太田・渡辺の二人が、中野ブロードウェイの中にある渡辺浩弐が経営する(といっても年に数回しか開けないのだが)「Kカフェ」というカフェから配信するニコニコ生放送だ。その内容は星海社がその時手がけている企画の話が多く、またゲストに作家が登場することも少なくなかった。メフィスト出身の佐藤友哉、講談社BOX新人賞受賞者の小柳粒男、『NHKにようこそ』の滝本達彦などが出演した。そして、このニコ生で毎回行われた定番のコーナーに「この本ステマせん!」がある。このコーナーは太田克史と渡辺浩弐が毎回オススメの本を一冊ずつ紹介するというシンプルなものである。僕はこのコーナーで紹介された本をかなり意識的に読んだし、そこからかなり影響を受けた。岡田斗司夫の「僕たちの洗脳社会」を読むキッカケになったのはこのニコ生だし、塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズもこのニコ生で知った。他にも中田永一「くちびるに歌を」、スティーブン・キング「小説作法」、筒井康隆「残像に口紅を」、泡坂妻夫「しあわせの書」なども同様にこのニコ生がキッカケで読んだ本だ。『幻影城の時代』も、このコーナーで太田克史が紹介していたのが、購入のきっかけである。
ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上) (新潮文庫)
ニコ生で太田克史は「定価は6000円だけど、いずれ中古で10000円くらいになるから、今買った方がいい」と言っていた。ニコ生は2012年のもので、僕が最初にこのアーカイブを見たのは2014年だったと思うが、その時は「幻影城」という雑誌のことをよく知らなかったこともあり、適当に聞き流して調べようともしなかった。
再びそれを意識したのは2015年で、きっかけは、たまたま綾辻行人がその数日前に「幻影城」の終刊号(東京でだけ売ってる同人誌らしい)を手に入れたことをツイートしていたのが頭の片隅に残った状態で、久しぶりに「公開企画会議(仮)」のニコ生を見たからだった。ニコ生を見ながら実際にアマゾンで値段を調べると、実際に中古の価格で一万円近くの値が付いていた。しかし、すでにニコ生の太田克史の口上に乗せられていた僕はその内容を読みたくて仕方なくなっており、迷わずそれを購入してしまったのだった。
以上。これが、『幻影城の時代』について及び僕がそれを知ったキッカケの話である。
それでは、また。