飄々舎

京都で活動する創作集団・飄々舎のブログです。記事や作品を発表し、オススメの本、テレビ、舞台なども紹介していきます。メンバーはあかごひねひね、鯖ゼリー、玉木青、ひつじのあゆみ。

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新連載「ゆゆしい音色」①【同人小説】

 

 「それ、殺すの?」

 声のするほうに視線を向ける。台所で夕食ができあがるのを待ちながら僕の手を見る妻の眼を見る。それから自分の結んだ手を開き、中のティッシュにくるまれたさっきまで蜘蛛だったものを見る。8本の脚をすべてばらばらにされたあとぐちゃぐちゃに潰れて跡形もない。いつもこういうふうに平気で虫を殺してしまう。イライラすると蜘蛛に限らずバッタやアリを捕まえてなんとなく脚を1本ずつむしり取る癖は昔からあった。蚊やハエにしたって両手でぱちんと潰してしまわず、指先でそっと羽をつまんで生け捕りにして同じようにひとつひとつのパーツに分解する。そういう子どもだった。ちょっと器用な子どもだった。そしてかなり賢い子どもだった。テストはいつも100点だった。10歳かそこらのその辺の子どもなら普通なにも考えていないか、考えていても誰が誰のことを好きかとか、誰が一番ドッヂボールが強いかとかそういうことだろうけれど僕はちがった。絶望を知っていた。そもそも僕は、誰よりも短い勉強時間でテストの高得点を取り、誰よりも少ない練習時間で速く走り、決められた額の小遣いを誰よりも有効に使った。しかしある出来事をきっかけに僕はあらゆる努力を無駄だと感じる子どもに変わってしまった。僕には好きな女の子がいた。みきちゃんという子だった。彼女は瞳が大きくて鼻が高くて少し面長で、子どもなのにはっきりとした美人顏をしていて当時売り出したばかりのユニクロの水色とピンクのフリースを毎日交互に着ていた。当時の僕は他の誰から見てもどの児童より優秀な小学生だったから自信満々で彼女に告白した。

「みきちゃん、君は僕と付き合ってもいいんだよ。」

「本当に? でもみきはフユヒコくんのこと、好きじゃないよ」

「好きじゃないよ」! 彼女がなんでもないふうにさらっと言った一言が耳の奥に隠されていた大きな鐘が鳴るみたいにひどい音で響いた。それから1週間、僕は毎朝「好きじゃないよ」と音を立ててジャンボ・ジェット機が墜落する悪夢を見ながら目覚めることになる。「好きじゃないよ」「好きじゃないよ」「好きじゃないよ」……。

「なに、ひとりでぶつぶつ言ってんの?」

「え?」

 気がつくとすぐ目の前に妻の顔。ぼんやりとした視界。ぱっと見では気にならないくらいの口元の些細な肌荒れからぴっと吹き出す彼女の赤い血が目を引く。長い睫毛、それが閉じてぱちっとまばたきする。彼女の背景に自宅のダイニングがくっきりとした像を結び直す。

「なんか言ってた?」

「うん。頭、大丈夫?」

 あと10分で夕食の準備が整う。飛行機は墜落していない。鍋が揺れているだけ。中身がぐつぐつ煮えて蓋の揺れる音がする。その鍋はちょうど子どもが一人隠れそうなくらい大きい。もちろん煮立っていないときの話だ。どうしてこんなバカみたいに大きい鍋でポトフをつくるのか。パーティーをするのか。僕ら二人ともにそんな人付き合いをする甲斐性はない。保存用か。冷蔵庫にこの鍋は入らない。ここで煮込まれているポトフのほとんどがこれから彼女の胃袋に入る。

「お腹すいた」そう言って妻が、椅子から半立ちになるので、

「あ、いいよ。僕が見るから」

 そうすると彼女は「どうもどうも」という顔で僕に向かってへらへら笑いながら、最初から立ち上がる気がさらさらなかった感じにまた座り直して、夕食ができるまでのもう数分、手持ち無沙汰そうに足をばたばたさせ、してもしなくてもどっちでもいい質問を思いつく。

「今日さ、一日なにしてたの?」

「なんで?」

「別に」

「朝7時に起きて、新聞読んでコンビニでパスタ買ってきてお昼食べて昼寝してBSで西部劇見て、推理小説読んでたらそのまま寝ちゃって起きたら夕方で寝ぼけてばさって開いたページが目に入って、そしたら犯人わかっちゃって読むのが面倒くさくなってブックオフ行ってその本売って漫画読んで帰ってきた」

「たいへんだね。仕事は見つかりそう?」

「無理だな」

「ふうん」

 部屋着の妻がトイレに行くのにすっと立ち上がる。白くて長い足が2本、地面に着陸して小さな頭、ほっそりとした身体のライン、長い脚、それこそ蜘蛛みたいに大きな手、垂直方向に伸び上がる。

 振られたあと、僕はみきちゃんについてのリサーチを重ねた。好きな色はなにか、好きな食べ物はなにか、好きなテレビ番組は? 好きな登下校路は? 休みの日はなにをしているの? いつも何時に寝るの? 調べて、彼女の好きなものをプレゼントして、告白して、その度に振られた。僕は努力でどうにもならないことを初めて知った。努力すればするほど彼女にのめりこんでいき、報われないのが虚しくなった。6年生の修学旅行の直前に彼女が同級生の誰かと付き合いはじめたという噂が流れ、修学旅行の自由時間の間ずっとその男とみきちゃんがいちゃいちゃしているのを直に見て僕は灰のようになった。その所為で中学受験に失敗し地元の公立中学に通うことになった。それ以来僕は何事も無気力になり、頑張ったところで大事なことはなにも思い通りにならないということに気づいてしまい、絶望のあとの余りものの人生を送ってきた。頭が良かったのと黙っていればそこそこモテたのと自殺するほどの度胸がなかったので30までのうのうと生きてきた。でもそんな人生は結局、割り切れない端数の時間を徒労に費やしているだけなんだ。

「フユヒコくんさ、小さいとき蟻とか殺してたでしょ? 手足とかもいでだるま状態にして校庭の立ち幅跳びの砂場とかに埋めたりしてなかった? それでなんだけど、人間が同じようにそういう目に遭うかもしれないとか考えなかった?」

「なんの話?」

「たとえば目に見えないくらい大きい巨人がいて、私たちをちょっとした手ちがいで踏んづけたり潰したりしちゃう。ひどいときはどうでもいい暇つぶしのためにつかまえて手足もいで殺しちゃう。そういうことについて考えたことはない?」

「……」

「蜘蛛ってさ、なに食べるか知ってる?」

「ハエとか?」

「オスの蜘蛛とか」

 自分の旦那であるオス蜘蛛を食べるというのはクロゴケグモのことで、漢字で「黒後家蜘蛛」と書く。「苔」じゃなくて「後家」。日本にはその種の蜘蛛はいない。

「いや、別に蜘蛛、殺すくらいいいんだけど。私だって蚊は殺すよ。噛まれたら痒いもん。ゴキブリだって殺すよ。ネズミだって。だって冷蔵庫のもの食べられたら困るでしょ。でもさ、それは害があるからだよ。そんなことは今までなかったけど、たとえば山小屋で熊に襲われたとして手元に猟銃があったら殺すよ。使ったことない猟銃をつかって、たとえ自分が勝手に縄張りに侵入したせいでその熊に、ライオンに、象に襲われたんだとしても迷わず殺すよ」

 彼女はなんの話をしてるんだろう。

「フユヒコくんさ、私のことちょっと変わってるって思ってるかもしれないけどさ」

「思ってないよ」

「本当に?」

「本当だよ」

「でも狂ってるって多分思ってる。絶対思ってるんだけど、」

「思ってないよ」

「もういいの、私のために思ってることにしといて」

「わかった」

「でもね、私、全然普通だから」

「……うん。ちょっと難しいけど、わかった」

「そう。だから、むやみにそうやって害のない虫とかでも殺したり、手足をばらばらにするとかっていうのは私は本当は嫌なの。だからそういうことだけは、私の前でしないで」

「わかってるよ」

「そう、よかった」

 ジャガイモ8個、タマネギ3個、ソーセージ2袋、人参5本、ズッキーニ5本分のポトフ。もうすぐできあがる。それで、放っておけば70分以内に全部妻に食べられてしまう。

「でもさ、君にそんなこと言われるなんてちょっと意外だったな。だって、今まで何人殺してきたの?」

 いびきが聞こえる。テーブルにさっきまで座っていた妻はいつの間にか食事を終え、リビングにあるカーペットの上にまるまっていたブランケットにくるまって眠っている。

「風呂ぐらい入りなよ。明日、舞台立つんだろ?」

 妻は音大のピアノ科に通っていて、大企業の社長である父親が半分道楽で経営している市内のバーでピアノのリサイタルを5歳のときから3ヶ月に1回行っている。そしてその前日に必ず一人、人を殺す。女子どもは決して殺さない。人選には彼女なりの基準があるらしい。

 この家も僕らが結婚したときに彼女の父親が買ってくれたものだ。リビングから玄関に続く廊下に出て、すぐ左手に見えるトイレの隣には1階のガレージに屋内から直接つながる海外の古い映画でしか見ないようなレトロなエレベーターがついている。つなぎに着替え、ゴムの長靴とゴムの手袋を装着し、マスクをつけてゴンドラに乗り、ゲートを締めてレバーをいじって1階へ。ガレージでは今日の仕事が待っている。エレベーターが1階で止まる。ガレージ内で点けるには明るすぎる本来は玄関用の照明、輪郭以外ははっきりとしないソレ。漫画に出てくる金持ちの屋敷によくあるカーペットにされた虎の毛皮みたいにうつぶせになった男、頭部がこちらを向いている。しかし、彼の胴体が本来あるべき場所には上から思い切り打ちつけられた人間大のトマトみたいな血痕。血痕の中心にはおそらく元はそのトマトだったなにかの塊。日付の変わる42分前。朝日の昇る5時間前。

 

 

 

 

 

 

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