第三回よまいでか『魔女がいっぱい』
こんにちはかみしのです。
おひさしぶりの更新です。
今回は第三回、ロアルド・ダール作『魔女がいっぱい』です。
- 作者: ロアルドダール,クェンティンブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,清水達也,鶴見敏
- 出版社/メーカー: 評論社
- 発売日: 2006/02
- メディア: 単行本
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このロアルド・ダールの名を聞いて、たいていの人がまっさきに思い浮かぶのはジョニー・デップ主演『チャーリーとチョコレート工場』の原作である、『チョコレート工場の秘密』ではないでしょうか。ぼくもそうでした。
チョコレート工場の秘密 (ロアルド・ダールコレクション 2)
- 作者: ロアルド・ダール,クェンティン・ブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,柳瀬尚紀
- 出版社/メーカー: 評論社
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この『魔女がいっぱい』は、クェンティン・ブレイクの独特の挿絵入りの児童文学。
読んでいて、なんだかなつかしい気持ちになりました。
おとぎ話のなかの魔女というのは、いつも黒い帽子に黒マント姿で、ほうきの柄に乗って飛んでいる。ところがこれから始まるのは、そんなおとぎ話ではなくて、ほんものの魔女がでてくる話なのだ。
という書き出しは、まさに語り聞かせの導入のよう。
昔々、とはじまる物語をお母さんから寝物語に聞いていた時代を思い出してしまいます。
ところでフォント病というのがあります。勝手にぼくが名前をつけたのですが、ぱっとページをひらいたときに特殊なフォントがあると無条件に面白そうと思ってしまうという、厄介なパブロフの犬現象なのです。
たとえばこういうの↓
ベスター『虎よ、虎よ!』
高橋源一郎『虹の彼方に』
プラセンシア『紙の民』(手はぼくのではありません)
これは少し極端な例なのですが、この『魔女がいっぱい』も一ページ目を開いたときに、「ほんものの魔女」が太字になっていて、その時点でぼくは「あ、おもしろそう」と条件反射のように思ってしまったのでした。うめぼしを見るとよだれがでるのと同じようなものです。
どうして太字になっているのか。
はじめは聞き手、読み手、つまり子どもたちを怖がらせるためかと思いました。「ほんものの魔女」とは、いわゆるおとぎ話でよくでてくる(「ヘンゼルとグレーテル」とか「しらゆき姫」とか)とは別物とされています。
もしかしたら、魔女は今、となりの家に住んでいるかもしれない
つまり、身の回りにいるあの人も、この人も、恐ろしい魔女かもしれない。
森の中で、よくわからない紫色のものをぐつぐつ煮込んでいる魔女ではなく、「ほんものの魔女」はそこら中にいる。それを強調しているのかなと思いました。
子どもを疑心暗鬼に陥れるロアルド・ダール、なんて悪い男だ……とか思いながら読み始めました。
けれど、読み終えて、この記事「地獄の門」の魔女たち、ノルウェーの暗い歴史 写真3枚 国際ニュース:AFPBB Newsを読んで少し別の意味もあったりするのかな、なんて思ったりもして、これについてはあとで書いてみます。
まずは物語について。
主な登場人物はぼく、おばあちゃん、それから魔女。両親を事故で亡くした(この設定からして少しダーク感が強い)ぼくが、ノルウェーのおばあちゃんの家にひきとられるところから物語ははじまります。
おばあちゃんは魔女についての逸話をぼくに話します。
これがなんだかうさんくさい。ちょっと話の矛盾点をぼくにつつかれると「おばあちゃんは年寄りだから」といった具合にとぼけたおすので、もしかして魔女なんていないのではという気持ちにすらなっていきます。
でもそんなことはなくて、とあるホテルに宿泊したぼくは魔女の集会に遭遇してしまします。
中でも大魔女と呼ばれる存在がいて、彼女はすべての魔女をすべる魔女であり、資産家でもあります。美しい顔をしているのですが、それは仮面。正体は、
なにか猛烈に狂っていて、むかつくほどきたなくて、くさってくずれていた。
といった具合。部屋も紳士用トイレのにおい、と称されるようなとにかく汚い存在として描かれています。ちなみに魔女にとってはきれいな子供は「犬のうんちのにおい」らしく、このあたりシェークスピアの魔女の「きれいはきたない、きたないはきれい」を思い出したりしました。
大魔女は奇妙な話し方をします。こんな感じ。
つぎにあげりゅものを、つぎつぎにまぜあわせりゅざんす
ラ行がりゃりゅりょ、と表記されてひらがな過多の書かれ方をすることで「くとぅるふ」的な怖さがでます。よく「ヵッォ」みたいな小文字が怖い、みたいなのがありますがあれと同じで不明瞭であったり、普通とわずかに違うものであったり、不気味の谷に入り込んでいるものは怖いわけです。ダールもそれをしかけているのかな、と思いました。
魔女たちはイギリスの子供をすべてネズミにかえてしまう計画を練っています。ぼくは隠れて会議をやりすごそうとするのですが、においでばれてしまいます。そうしてぼくはネズミにされてしまいます。
さて、ネズミにされてしまったぼくはイギリスを救うことができるのか――というのが話の大筋なのですが、この小説、児童文学としては少しダークな部分がおおかったりします。
両親の事故死であったり、魔女たちの殺せコールであったり、おばあちゃんがヘビースモーカーであったりというところもさることながら、一番衝撃的なのが、ぼくはネズミになったままもとには戻れません。
戻れないまま、ネズミとしておばあちゃんとすごしていくことになります。
普通だったら、もとに戻ると思うんです。
でも『魔女がいっぱい』では、そのセオリーは無視されます。なので、ある意味でメリーバッドエンドの作品、ほろ苦い後味の作品となっています。
ぼくが一番好きだった言葉を引用しておきます。
「ぼうや、残りの命をネズミで生きるってこと気にしないって、ほんとうなの?」
「ぜんぜん気にしてないよ。かわいがってくれる人がいれば、自分が誰だとか、どのように見えるかなんて、たいしたことじゃないもの」
ここ。
何回も読んでしまいました。これってもっともっと広い意味でとれる言葉だと思うんです。一人愛してくれる人がいたら、見た目がどうとか、どんな生き方だとか、関係ない。
こういうきらきらした言葉を見ると、ぼくは目がくらんでしまいます。
すごく心に入り込んでくるんです。でも、それを拒否する自分もいます。お前はひとりでいなくちゃいけない、といった強迫観念が存在しているので、人と手をつなぐことで幸せになれる系の言葉を見るとなぜかさみしくなってしまいます。まあ、これはぼくのひねくれてねじくれまくった感性のお話なので、置いといて、このやりとりはほろりとさせられます。
その「かわいがってくれる人」を見つけたいものですね。
全体として、少しダークな児童文学といった感じで読みやすいながらも、読み応えのある面白い作品でした。
それで、「ほんものの魔女」についてのお話です。
先ほど挙げた記事によると、ノルウェーでは17世紀「地獄の門」と呼ばれる場所で魔女狩りが行われていたようです。魔女狩りというのは、中世、女性が魔女として次々処刑された、いわゆる悪しき風習なのですが、作品の舞台の一つノルウェーでも、この魔女狩りは行われました。
ところでこんな図があります。海野弘『魔女の世界史』からの引用です。
この図は、古今東西の魔女的なものを分布した図なのですが、作者曰く魔女狩りの対象になったのはⅣの魔女たちだったとのことです。
つまり、この小説に登場する「おばあちゃん」も、中世においては魔女狩りの対象となりえたということです。
このおばあちゃんは、常に「ぼく」の味方であって善なる存在として描かれています。
そういった善なるものが悪なるものとして、断罪されていった時代が確かにあったわけです。この小説の中で「ほんものの魔女」は明確に悪なる存在として描かれています。
つまりこの「ほんものの魔女」は悪の強調である一方、対立項としての「にせものの魔女=ほんものとされた魔女=普通の女の人」も想像させるわけです。
その「にせものの魔女」の代表としておばあちゃんが存在していて、はまきを吸うような悪そうな一面をもちあわせながら、つねに善なるものであり続けるおばあちゃんは、大魔女の鏡合わせとして存在しています。
一見悪そうな人でも、それは悪ではない。また仮面で見繕っている美しい人も悪たり得る。
それを正しく判断しなくていけない。大人になるうえで、社会に参加するうえでそういうことが大切である。
そのメッセージにに魔女狩りに対する問題意識をも込めている、とまでいうのはおそらくいいすぎだと思いますが、「ほんものの魔女」の太字にはしっかり意味があるのではないかと思いました。
ロアルド・ダール、すごい。
第一回よまいでか。俺TUEE系直木賞小説です。
第二回よまいでか。人のいなくなった世界をことこと旅する女の子たちのライトノベル。
募集はこちらのブログへのコメント、あるいはぼく(かみしの)かあかひねさんへのリプライ・DMでおねがいします。ぼくに強制的に本を送り付けるということもできますので、どんどんお待ちしています。カムヒア。